旅順口
(Lushunkou)
2隻並んだ方の違う小型フリゲート。上の写真のものより大型で しかも装備は近代化されている。港の公園(外人は入れない)で撮影したものであるが この向こうの入り江にはさらに大型のフリゲートが係留されていた。また 潜水艦も7-8隻停泊しており 外国人の立ち入りはそれ故厳しいようだ。
日本史を少しでもかじれば日露戦争の激戦地”旅順”は必ず記憶に残っているはずであるが、旅順がどこにあるか具体的に知っている人はそう多く居ないだろう。中国では北から黒龍江省・吉林省・遼寧省の3省を”東北地域”と言う。この内一番南で黄海と渤海に遼東半島を突き出しているのが”遼寧省”。ここの省都は”瀋陽”である。遼東半島の一番端に”大連”と言う大きな町があるが、この大連から車で30分ほど東に位置するのが”旅順口”である。1881年清の李鴻章がここを視察した際に軍港としての価値を見出し、海岸砲台など多くの軍事施設を建設、東アジア最大の軍港として北洋艦隊の基地となった。その後清政府の力が衰えると共に列国の侵略が始まり、旅順はロシアの支配下になった。ロシアは7年間の占領期間にこの港をロシア太平洋艦隊の基地とするため4年もかけて難攻不落の要塞に仕立て上げた訳である。しかし同じ中国東北地域の利権を争っていた日本との間で1904年”日露戦争”が勃発、激戦の末、日本軍が占領しその後40年にわたり統治することになる・・この地を訪れてみた。
現在では中国海軍の一大基地となっており、多くの艦船が係留されている。ここは暖流の関係で年中凍らない不凍港で水深も深くまた港内は広い為、天然の良港でしかも渤海湾を包み込む遼東半島の先に位置する戦略的に極めて重要な要所。こそっと撮った海軍の正門!大きい物好きの中国人らしい立派な門構えなのだ・・・
よく判らないが、海洋観測艦と補給艦が係留されており、その向こうに中型のフリゲート4隻が停泊していた。軍港の中心部であり外国人の立ち入りは禁止されている。ビクビクしながら撮った写真。
沿岸警備艇クラスのものだろう。機関砲らしき装備を艇の前後に持つ。
旅順口の遠望 203高地から見たものである。写真左端と真中が旅順の港”旅順港”ではなく”旅順口”と呼ばれる。203高地を占領した日本軍はこの高地から封鎖されて逃げられなくなったロシア太平洋艦隊の50隻の船を4日間ですべて砲撃で撃沈してしまった。なるほど・・ここから狙われたら港の船は単なる標的に過ぎない。
左は旅順の町を走る幹線道路、道路の右手は軍港が連なる。山の上に聳えるのは”白玉山南峯”と言って、元々は”表忠塔”と名づけられた記念塔。ここへは行かなかったのだがこの場所からだと軍港が一望でき停泊中の艦船がすべて撮影できそうである。多分外人の立ち入りは一切出来ないのだろうが・・・この塔、何と乃木大将と東郷平八郎元帥の提案で1907年に建立されたものであるそうだ。旅順の町には今でも多くのロシア時代・日本統治時代の建物が残っており 観光の名所になっている。道は大連方面に向かっている。
遂に来ました203高地、旅順要塞攻防の最大の激戦地 旅順市外の西北に位置し 海抜が203メートルある事から名付けられた。1904年12月5日日本軍は17000名もの死傷者を出してこの要塞を攻め落としたが、旅順口を見渡せる絶好の位置に在りまたロシアの西側防衛線の最大の基地がここにあった為、是が非でも落さねばならなかったのだ。此処には多くの日本人が訪れるようである。 
二〇三高地
左から・・・203高地に向かう道。此処からだと何処が203高地か判らないが、左手の小高い丘がそれである。観光用の駐車スペースまで行き少し登ると石畳の坂がある(写真中)、ここを登りきると頂上に砲弾の形をした記念碑が建っている(写真右)。これは此処の戦いで亡くなった多くの日本陸軍軍人の魂を慰める為、乃木大将が1905年に建立したもので文化大革命でも破壊されずに残されていた。戦場に残された弾薬の薬莢を鋳造して造ったものだそうだ。今では観光の目玉でもある。”爾霊山”とあるが”203”と掛けているらしい。
(参考文献  旅順大観)
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