The Period of F-5E/F
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第8大隊
8th AIR GROUP
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花蓮空軍基地(Hualian Air Base)は、花蓮駅から車で10分ぐらいのところで ランウェイの一方は、海側に向かっている。正門は、右写真のように実に質素な白塗りのコンクリートゲートで ここをくぐると基地中心までは 緩やかな傾斜路となって下るように進むと 左右にランウェイが広がり シェルター群が一望できる。シェルターは、細かく芝が張ってあり 上空から見た場合 周りの情景に溶け込む工夫がされているのは 他の基地と同じである。ランウェイの向かい側は、民間のターミナルとなっており 観光に訪れる多くの人は 時間のかかる列車を嫌がり 当時急速に発展しつつあった コミュンター機で 花蓮にやってきた。花蓮空港に着陸する際 民間機の客室には「花蓮空港は、軍用機の基地と併設であり 上空からまたターミナルからの写真撮影は禁止されております」とのアナウンスが流れ カメラを手にしているとキャビンアテンダンスから 仕舞うように注意を受ける。これは今も同じなのだろうか。
ランウェイ南側のシェルターには 普段F-5E/Fが収納されていたが 基地の一般公開の際は、機体を格納庫に収め 空にしていることが多かった。ご覧のように6つのシェルターには、それぞれ2機の戦闘機が 前後から出入りできるようになっており 90度ずつ角度をたがえて 同一方向からの爆撃投弾で 一気に被害が出ないように考えられている。しかし 現在の精密爆撃の前にはあまり効果がない為 背景に写る山を切り抜いて 佳山空軍基地が建設され 戦時は、山の中に収納されるようになった。
Wings
第15戦術戦闘機中隊
花蓮空軍基地のもうひとつの戦闘機中隊 15TFS、彼らのインシグニアは、何故かアメリカ空軍のF-15のインシグニアに似ている。F-15と15を掛けたのではないかと想像してしまった。青い大きな星と小さな5つの星が”15”を示し F-5が弧を描いて飛ぶ。1935年7月に中華民国南京政府時代に創設された部隊で ダグラスO-2MCと言う偵察機の配備を得て 第6偵察大隊としてスタートした部隊である。1936年に西安で起きた所謂「西安事件」では蒋介石と共に部隊ごと張学良の部隊に拘束を受けたようである。日中戦争末期は、爆撃部隊に変更され1944年に一度解散しているが 1983年F-5Aの部隊として花蓮で再スタートをきった。
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F-5Enに装備されているポンティアックM-39機関砲 20mm口径のリボルバーカノンで 元々はドイツのマウザー社が大戦中に開発したMG213をモデルにしているらしい。F-4ファントムから採用になったM-61バルカンの前は、F-100などもこれを積んでいた。台湾は、これをT-75としてライセンス生産していた。航空機以外でも手軽に使える性能の優れた機関砲であった。
台湾もF-5E/Fをライセンス生産していたため 比較的部品の調達はスムーズに行えたはずで 台湾におけるF-5の息が長い原因はここにある。また 飛行時間にしても 米軍や航空自衛隊のように訓練時間が長いわけではなく 機体寿命を考えてかなるべく長く使えるように制限しながら飛んでいたように思える。このF-5F 30142は、ライトグレー一色の単調なマーキングであったが 真新しい塗装で美しかった。
第8大隊のF-5Fで一番撮影の機会に恵まれたのが 迷彩の濃淡がはっきりしていた30114号機(83-0114)である。この機体 1997年9月30日に花蓮近郊の山に 僚機のF-5E 5228号機と共に突っ込んで パイロット3名が亡くなっている。この時亡くなった謝順燈中尉は、航空祭で世話になったパイロットで 新聞報道を見たときはショックであった。謝順燈中尉は、事故当時 F-5Fの後席に乗っていたそうだ。
第8大隊は、花蓮基地が長かったが その後 北部の桃園基地に移動し CCKにも展開したため 最終的には、F-5の実戦部隊としては、一番息の長い航空隊となった。(第7大隊は、主体があくまで訓練部隊であるため)