1981年8月、突然会社から台湾駐在を命ぜられ2年少々の間台北に在住する事になる。学生時代から趣味であった航空機の写真撮影も当時準戒厳令下の台湾では、御法度であり一時活動の停止を余儀なくされたが、現地での営業活動で台湾の各地を移動する中、目にする数々の軍用機にどうしても体の虫がうずき、何れは撮影したいとの気持ちが高まっていった。幸い現地での生活で中国語の方も上達し会社の同僚にも空軍出身者が居た為、少しずつ情報を収集しながら持参していたカメラの活躍するときを待っていた。

 当時の台湾は、大陸中国との間に鋭い緊張関係にあり 首都台北をはじめ軍事施設、港湾 空港など防衛戦略上の重要施設は、警察機関・軍機関・民間の協力団体も含め厳しく管理されており、海岸線にも要所要所に半地下の監視所が設けられ陸軍と海軍陸戦隊が監視にあたっていた。まだ時代は國共内戦の延長線上にあったのだ。

 日米が中華人民共和国との国交を樹立 国際的には孤立感を拭えなかったが、経済は毎年驚異的な成長を続け、日本に並んで”アジアの奇跡”とまで言われるようになっていた。国民党の一党独裁体制ではあったが 基本的には自由主義国家であり 生活上も堅苦しさは、まったく感じられなかったし また台湾の明るく積極的な国民性は、経済発展にも大きく寄与していると思えた。
当然その頃には 経済的にも技術的にも 大陸中国に大きな差をつけていた。台湾と大陸中国の空軍は、互いにラジオ放送などでパイロットの亡命を呼びかけていたが、亡命するのは、大抵の場合大陸中国のパイロットであった。私が駐在している間にも2名が亡命に成功しており 大々的にテレビ報道が行われた。彼らは、命をかけて自由を求めた”義士”として讃えられ多額の報奨金も与えられたが 同時に台湾にも貴重な大陸の軍事情報をもたらしたわけである。

 またその頃 台湾政府は、次期主力戦闘機の選定を行っていた。当時の主力は、F-104Gとライセンス生産が軌道に乗り始めたF-5E/Fであったが、古いF-100も現役にあり主力機の数量不足を補っていた。しかし 先進各国がF-16を導入開始し 隣接する日本もF-15の受領を待つばかりの状態 どう見ても1世代古いラインナップを改善する必要性があった。F-16Aを希望していたが、アメリカ政府の承認は取れずF-20についても破談した。遂に台湾政府は、国威をかけて国産戦闘機の開発を決定したところであった。 こうした一連の報道が空軍に関するわずかなインフォメーションとして、テレビメディアと時々に町で見かけて購入していた「中國的空軍」誌で入手できるだけであった。よって写真を撮りたいという私のフラストレーションは溜まる一方となった。

 駐在生活も1年を過ぎた頃、何が危険で何が危険でないかも把握できるようになり少しずつ撮影に出掛けるようになった。スパイと勘違いされないように行動は、極めて慎重を心がけた。戦闘機類は、あまり撮る機会を得なかったもののこの時代に撮った数々の機体は、私の貴重な宝としてアルバムを飾っている。この辺の話は、以前同人誌HONET80にも掲載した事があるので割愛したい。

 李登輝総統が就任して以降は、政治的にも自由化がはかられ 軍も随分オープンになった。軍事関連の雑誌も複数発行されインフォメーションも当時とは、格段の差である。1990年代に入ると空軍基地も一般開放される事が多くなった。これに伴って 私も台湾を訪れ再び台湾の航空機を撮影し始めた。1990年代台湾にも「航空迷」と呼ばれる写真マニアが増え 90年代後半ぐらいから日本各地の航空祭やAIRTATTOなど海外へも進出している。私は、彼らの草分け的な存在である友人との交流を続け、写真撮影の楽しみを分かち合っている。しかし台湾国内は、軍事基地の撮影は禁止されており 当然基地外からの撮影も基本的には、「NO」である。
 私としては、将来 台湾のマニアの層が厚くなり イギリス/オランダ/日本等とともに 趣味として一般に認知される国情になってもらいたい望んでやまない。日本からマニアが台湾に撮影に行く事も多くなったが、漸く芽生え始めた台湾のマニア諸氏に迷惑をかけないためにも 日本の国内とは全く違う環境にあると言う事を認識していただいた上での行動をお願いしたい考える。 
Taiwan Air Force
プロローグ
私と台湾空軍
1981年から81年に駆けて松山飛行場でC-119Gなどを撮りに行った際、撮影の為に陣取った新築中のマンションの隣のビル屋上に備え付けられていた高射砲。40mm位の砲だと思うが型はかなり古い。しかし、戒厳令下であった為か良く整備されてお、 いつもピカピカで中共軍のMig-17やMig21のシルエットを掲示して敵味方の識別が出来るようにもなっていた。ここには空軍の兵士がいたはずであるが、こんな場所で私はこそこそと撮影を行っていたのだ。今ではすっかり高級マンション群のハイカラな町並みに変わったが、当時はまだまだ場末の雰囲気があった一帯である。
尚、本ホームページ上で掲載している写真は、写真内にクレジットが入っているもの以外、全て私の撮影によるものですので、無断で転用される事はご遠慮ください。
中華民國空軍・・これが台湾の空軍の正式名称である。長らく彼らは、自らを”中國空軍”と呼んできた。現在の世界情勢と台湾の国内での民主化の促進(というよりは、台湾の独自性の指向化)により すでに台湾国内でも”台湾の空軍”と呼ばれることが多くなった。しかし 機体に輝く”青天白日旗”は、中国の空軍の長い歴史と伝統を今に受け継いでいる事を示している。

 近代中国は、1912年の孫文による辛亥革命により 南京に首都をおく中華民国の誕生により始まったといわれる。しかし 清が倒れた後も中国国内では、各地に軍閥が勢力を持ち内戦が絶えなかった。孫文は、こうした軍閥の撲滅を図るために強力な軍事力増強を実施 その一環として航空部隊を設立した。この頃から使用する機体に描かれ始めたのが、国民党旗でもある”青天白日旗”である。孫文の後を継いだ蒋介石は、1928年10月に陸軍軍官学校(士官学校)内に航空課程を設置しパイロットの養成に力を入れ 翌1929年11月に ヨーロッパ各国に習い陸軍/海軍から独立した軍種として正式に”中国空軍”を設置した。 空軍士官を専門に養成する「空軍軍官学校」も雲南省昆明に開設され ここから巣立った多くのパイロットたちが、その後の中國空軍の礎を築いている。
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盧溝橋事件に端を発した日中戦争においても 中国空軍は、貧弱な装備にもかかわらず果敢に日本の陸海軍の航空機に立ち向かった。中国空軍の歴史の華々しい1ページは1937年8月14日に記録されている。上海事変後 日中双方が全面対決ムードとなっていたこの頃、すでに侮れない存在になっていた中国空軍を叩くため 台湾の基地を飛び立った日本海軍の陸攻を筧橋飛行場上空で6機撃墜し 中国側に損害なしという戦果をあげたとされた事である。実際は、その半分程度の戦果であったらしいが 他の戦線では華々しい勝利がなかっただけに大いに志気を盛り上げたと思われる。いまだに8.14空軍記念日として台湾では毎年祝賀会が行われている。太平洋戦争後は、相手を日本軍から共産軍に変え国共内戦を戦うが、内戦の敗北とともに台湾に移動。アメリカからの援助を貰いながら再び空軍の再建が図られた。

 大陸で中華人民共和国が成立し 台湾と中国本土に2つの中国空軍が存在することになるが、その後 この2つの中国空軍は、台湾海峡で何度か激しい空戦を繰り広げることになる。ほとんどは、練度と装備に勝る台湾側の勝利で収束したが 再び台湾の民主化と陳水篇政権の自主路線に対する中国政府の反発から 台湾海峡には再び緊張が続いている。日本と同様 四方を海に囲まれた台湾では、紛争の抑止に強力な空軍力がどうしても必要であり 古き良き伝統と先進の戦術と装備を持つ空軍への期待は大きい。

 私は、台湾の空軍をテーマの一つとして追い続けてきたが、本HPでは、現在の台湾空軍機と空の戦士たちを写真と解説をもってご紹介したい。本来 「中華民國空軍」と表記すべきであるが、この章でも大陸の中国空軍との区別の為、あえて一般的に使われる「台湾空軍」と表記する事にする。

 
PROLOG
台湾空軍は、冒頭に記述した通り中国大陸で生まれ蒋介石総統と共に台湾に移動してきた為、大陸の中華人民共和国空軍よりもその歴史が長く、現行の各部隊も辛亥革命以降に設立された元「中國空軍」の流れを汲んでいる。この中国空軍初期の歴史については、中山雅洋先生の中國的天空」に詳しく記述されている。現在は、絶版になっているものの新シリーズも執筆を始められており中山先生のこの著書は、現代の台湾空軍を知る意味でも大いに参考になるはずだ。また 台湾国内においても最近は、台湾の軍事関連著書が多く出版されており、近代台湾空軍を知る上では欠かせない資料も多い。しかし、そうは言っても様々の情報が入手できるようになって日が浅く資料に乏しい現状には変わらない。軍事に関する事柄のため当然と言えば当然なのだが 資料不足により確認できない推測部分や、ややもすれば間違った記述があるかもしれないが、それをお含み頂いた上このHPをご覧いただきたい。
All pictures were taken by N.O.B and my fliends (noting in the pictures)
......... ............N.O.B is Webmaster of Sky Warriors Gallery.....................
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