18TFW
The Peiod of F-15C/D
嘉手納基地は、総面積2280ヘクタール 3700メートルの2本の平行滑走路を持ち 月間離着陸数は、14000回 米空軍9000人 日本人の従業員2500人 基地全体に暮らす人2万人を超える巨大な基地である。1970年代 ここであれほどの勢力を誇ったF-4ファントムが終焉期を向かえ いよいよアジアにもF-15イーグルが配備される時代が来るようになった。ちょうど私にとっては自由だった学生時代が終わり 就職で社会に出るタイミングと合致したため 沖縄でF-15C/Dをふんだんに撮影できるチャンスは無かった。

 嘉手納基地にF-15の第一陣が来たのは。1979年9月。9月29日に16機が訪れ その年の暮れまでには36機のF-15が配備された。1飛行隊の定数は24機 第67戦術戦闘飛行隊(レッド)から 定数を満たして行き 次に第44戦術戦闘飛行隊(ブルー)が配備を完了した。新型のC/D型を最初に配備した空軍最初の航空団で 当時 東アジア重視の戦略がここ沖縄で象徴的に実施された事例である。沖縄は、訓練区域にも恵まれ 当時沖縄本島の南海上W-179空域、北西海上のW-172空域を主な訓練空域として使っていた。嘉手納のF-15C/Dは、朝鮮半島有事の際の長い槍として 常に北朝鮮に睨みをきかすと共に 台湾統一を叫ぶ中国に対する無言の圧力となっていたのだ。(2006/3 記)
(78-0470)
(78-0486)
18TFWの初期のマーキングは、尾翼のフィンチップにスコードロンカラーのラインを入れているだけのシンプルなのもであった。インテークには 各飛行隊のインシグニアを入れている。”78-0470”は、F-15Cの生産3号機で 最も初期ロットにあたる。
1982年9月 嘉手納18TFWのF-15は、マーキングを一新し始めた。何と尾翼に兜武者まで入っているではないか・・航空自衛隊の第3飛行隊F-1が少し前に尾翼に採用した兜武者はアニメチックな物であったが,米軍さんはいつもレトロなデザインを好むようで,18TFWが書き込んだものも古典的な絵柄となっていた。この年の9月に,米本土フロリダ州のティンダル空軍基地で開催されたウィリアムテル82に参加するために,書かれたスペシャルマーキングかと思いきや,そのまま18TFWのF-15の標準マーキングになった。尾翼のチップは、今までのどこの航空団にも無い三角定規状の識別マーキングとなり 各飛行隊で異なる配色となっていた。

18TFWは、アメリカの航空団で一度も米本土に席を置いていない唯一の航空団である。その航空団の最新のF-15部隊は、1982年9月フロリダまでの7000マイルの飛行距離をノンストップで移動した。第2爆撃航空団のKC-10などが 輸送、給油を担当 所要時間15時間であったが、これは ウィリアムテル参加と言う目的以外に 18TFWが装備したF-15で長距離の渡洋任務をこなせるかの最初の訓練も兼ねていたと見られ,部隊を率いた67TFSの飛行隊長ウォーレス中佐は 見事にそれをやってのけたわけだ。しかも ウィリアムテル82の競技会で見事優勝し,18TFWの戦闘能力の高さを内外に証明することになった。
第18戦術戦闘航空団(18TFW)は、最終的にF-15C/D3個飛行隊となり F-4C/D時代から1飛行隊減少している。
 F-4時代を知る友人が嘉手納を訪れた際 まず感じたのがF-4C/D時代に比べ 訓練飛行回数が少なくなっていることらしい。飛行隊の減少とシュミレーション訓練の進歩により実機を飛ばす必要が減少したことが そう感じさせたものと推測するが、これらのF-15C/Dは、後にレーダーもAN/APG-70に換装され AIM-120の装備もできるようになったことから F-4C/D時代に比べ格段に戦力アップしたと言える。
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(78-0479)
Wings
左の写真は、嘉手納にF-15Cが配備されて間もない頃(1980-1981)の頃のもので 最初にイーグルを受領した第67戦術戦闘飛行隊(67TFS)のF-15Cである。F-15は、元々大きな機体のため 何か改装するにしても機体の外形を大きくいじることなく 余裕で様々な装備を盛り込めた。アメリカ空軍では、A〜D型まで 合計893機のF-15を運用したが、航空自衛隊は、その4分の1の220機以上を運用しているので アジアの各国から見れば日本はすごい航空戦力に見えるであろう。F-15を採用した各国空軍は、エンジンの改装 レーダー、火器管制装置の更新を行い まだまだ寿命を延ばす予定である。そう言う意味では、購入時は高価な戦闘機であったが コストパフォーマンスの良い戦闘機と言える。   
Marking of ”Shoguns”