F-4SになってからのVF-161のF-4ファントムは殆ど撮れていなかったのだが、S型に変更になって全体的にロービジビリティ塗装が施されるようになっても、尾翼の稲妻だけは”赤色”でペインティングがされていた。ところが1985年の10月頃を境に色気のある部分はまったく無くなり、上記4機のようにグレーの濃淡で配色した灰色の世界に突入した。1986年4月8日 最後のF-4Sが厚木を離れる時、懐かしの黒ラインに赤い稲妻を書き込んだF-4S(160789)が超低空でテイクオフして周辺で別れを惜しむマニアに最後の感動を与え飛び去った。
多くの海軍ファントム飛行隊がFA-18ホーネットに機種交換し"VFA化"して行った中、VF-161は"VFA-161"として返り咲くことができなかった。しかしVF-161は太平洋戦争時代に編成された戦闘機中隊で歴史は古く、タラワなど多くの激戦地を戦った戦闘機部隊であったのだ。1945年の終戦共に一度部隊は解散しているが、1960年にNASセシルフィールドで再編成されて最初の受領機はF3Hデーモンを使った。
1964年暮れからF-4Bを受領してUSSコーラル・シーに搭載されベトナム戦に投入された。その後の活躍は前述したので割愛するが、1980年の12月と1981年の2月ににシスタースコードロンのVF-151と共にF-4Sを受け取っている。本来VF-151と共にFA-18Aを受領して厚木に戻ってくる予定だったが解散となった為、その後VFA-27が厚木に来ることになった。
J型に変わってエンジンの排気ガスの無鉛化も進み、長い黒煙を吐かなくなっていた為、マニアにとっても目視による確認がやりづらくなった。
F-4J
↑ 1977~1978に掛けてはVF-161が嘉手納で訓練することも多く、下の数枚は、厚木ではなく嘉手納でのR/W05の着陸シーンである。
1980年11月Midway入港の際、厚木に帰ってきたF-4Jはグレースキームに変わっていた。その後F-4Sを使用した時代もグレースキームが基本となった。同時にA-7Eもすべてロービジに変化し、VA-56も同様グレーに白地のレターに変わった。暗黒時代の始まりである
↑ 厚木基地のR/W19で離陸の為滑走路へ向かうVF-161/NF-100。J型に交換された後の100番は、特にCAG機としての特別なマーキングも施されず、NF-200番機とのマーキングの格差は大きくなり注目を受ける事もなかった。
1962年に制定された部隊マーク、盾にストライプ、コンパスの針とトライデントの組み合わせである。
F-4S
F-4Jは1966年から生産開始したとされ、その機数は577機となってB型を更新して行ったが、大きなレーダードームには最新の海面クラッターを除去して捜索できるパルスドップラーレーダーが付いたのと、エンジンがより強力になったのが特徴。
Fighter Squadron VF-161 flew off the USS Midway for the last time on 24
March 1986. This marked the end of an era as this was also the time the
F-4S was to operate from an aircraft carrier. The Chargers reported to
NAS Lemoore fortransitioning to the FA-18A Hornet. On
1 July 1986, VF-161 is renamed VFA-161 but, instead of returning to Atsugi,
Japan with the rest of CVW-5 in October, the squadron was reassigned to
COMLATWINGPAC ending her association with CVW-5.
1979年から1980年かけてUSSミッドウェイは、イラン革命によるアメリカ大使館占拠事件対応などで出動、解決するまでの間VF-161もアデン湾の監視業務などに従事したとされる。
↑ CVW-5のベースであった厚木基地で飛行訓練を行っていたVF-161のF-4J。機体左側面の写真はR/W01の午後、右面の写真はR/W19の午後の着陸で、共に2時過ぎ位から光線状態が良くなっていく。
↑ 沖縄嘉手納基地のランウェイをタキシングするVF-161のNF-104、機首上部をグロスブラックで塗っていた為、正面から見た姿も機首が引き締まって非常に美しかった。