VF-213
何時ぞやもそうであったが、ショー期間中にそそくさと部隊ごと移動してしまう。その為、余りじっくり撮影する時間も無い。もう少しじっとエプロンに居てくれれば、撮影のチャンスも多いのに・・・実に落ち付きの無いライオン達である。
この飛行隊がF-14Aを受領したのは1976年。私が本格的に航空機の写真を撮り始めた年であった。翌年1977年11月に空母キティホークが横須賀に入港した際、私も含め厚木のマニア諸氏はこのF-14飛行隊の厚木基地飛来を大いに期待したものである。(その前の月、10月に寄港したUSSコンステレーションのVF-211/VF-24の厚木飛来とローカルフライトで、マニア諸氏は皆味を占めていた)。しかしA-7/A-6などが訪れたものの、F-14Aは空母に乗ったままで一度も厚木基地に顔を出さなかった。何年か後に厚木/嘉手納に何機か飛来しているものの、私にとって日本では殆ど縁の無い部隊になっていた。シスター・スコードロンのVF-114”蟻喰い君”など一度も目にしない内に解散してしまった。結局、彼らに会うことが出来たのは20世紀も終わりが迫った1999年、しかもNASオシアナと言うアメリカ東海岸のえらい遠い所である。大西洋方面のF-14部隊ならともかく太平洋方面の部隊で初撮りに23年もかかったなんて、よっぽど縁の無い飛行隊だったのだろう。(2002年10月 記)
2002年オシアナで見た彼らは、尾翼に”AJ”のレターを入れていた。VF-211が、永らく所属した太平洋艦隊のCVW-9からCVW-1に変わったのと同時に、VF-213も大西洋方面のCVW-8に行ってしまった。その代わり太平洋方面はVF-102がVFA-102に部隊名を変更してCVW-5に来たのである。2003年1月から”AJ”のレターを付けた彼らは早速USSセオドア・ルーズベルトに艦載されイラク・フリーダム作戦への参加を行っている。オシアナに帰還したのは5月28日。機首にはそれぞれ出撃マークが書かれていた。
(AJ-111)
(AJ-107)
(AJ-106)
Wings
(Two Lions take off !)
1955年6月22日にNASモフェットフィールドで編成された部隊で、最初からF2H-3バンシーといったジェット戦闘機の配備を貰った比較的新しい飛行隊である。F-4を受け取ったのが1963年、他の飛行隊がF-4B型であるのに、VF-213だけは当時では画期的な母艦や空中警戒機とのデータリンク機能を持ったF-4G型が配備された。その後CVW-11(NH)に配属となり、一時的にB型にバージョンダウンしたがF-4Jを1969年に受領し、1966年からベトナム戦に参加、1972年の秋まで5回以上空母遠征して戦っている。特筆すべきは、1972年のラインバッカ−作戦への参加であろう。過去最大の北爆となったこの作戦は、アメリカが北ベトナムとのそれ迄の交渉で中々停戦が実現しない為、一挙に交渉を前進させる為のカンフル剤のような効果を狙って行われた。B-52は首都ハノイ、ハイフォン港などにはじめて爆撃を敢行し、北ベトナム政府に「アメリカは、ベトナムを石器時代に戻そうとしている」と言わしめたほど激しい爆撃には、キティホーク、ハンコック、サラトガ、オリスカニ、ミッドウェー、アメリカなど6隻の空母が参加 CVW-11の攻撃隊ははじめて”ウォールアイ”誘導爆弾を使って精密なピンポイント爆撃を行っている。これがVF-213のベトナムでの最後の仕事になった。1975年暮からミラマーで新型戦闘機F-14Aへの転換訓練が開始され、1976年に完了している。
2003年のオシアナ航空ショーはエクソンなど大手スポンサーが手を引いたことにより、ネプチューン・フェスティバル2003ではなく海軍主体の航空祭となった。F-14の影もすっかり薄くなったオシアナであるが、F-14の展示機は久々に色つきのCO機である。とは言っても VF-213のCO機は、濃紺の獅子座が描いてある事とコックピットのラインが同系色で塗られている実にシンプルなものだ。
AJ-101,164341
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VF-213のインシグニアは、星座の”獅子座”であり 獅子座の星の配列どおり黄色の星が並べてあり 「勇気と不屈の精神」を象徴しているとの事。
(AJ-102)
(AJ-105)
(AJ-104)
(Black-Lion of AJ-111)
黒獅子の群れが、移動する!(Black-Lions taxi out)