VMFP-3
VMFP-3は、VMCJ-1/2/3の機材などを引き継いで1975年7月に創設された部隊である。MCASエルトロをホームベースに本部飛行隊13機の他,4機編成の分遣隊(Det)を3個持っており、日本にも航空母艦USSミッドウェイでの洋上偵察/その他戦術偵察任務の為岩国に分遣隊が派遣され、厚木基地でも度々目にすることが出来た部隊である。アメリカ海軍がジェット偵察機RF-8G以降、自前の偵察飛行隊を持たなくなった為、海兵隊のRF-4Bが空母に派遣されるようになり、我々航空ファンはRF-4Bを目にする機会を得ることになった訳だ。今では偵察用のPODを使う為、専用の航空機は作らなくなったが、当時は空軍も海軍もRF-○○と言った偵察専用機を多用した。(2002/7/6 記)
1978年にはすっかり色毛を落し、グレーと黒の2色でマーキングされてしまった。何とか国籍マークは色が付いていたものの落胆した。F-4N型と同様の改造が施されており、ジェットインテークにはALR-45 ECMアンテナなどが追加されていることが、外形上で判る。
Wings
VMFP-3はRF-4Bを使用機として1990年9月末に飛行隊が解散するまで使い続けたが、岩国に派遣されるDet毎にマーキングが異なっていたことが多く、マーキングの変化でも楽しめた部隊である。また 厚木基地を離陸して 住宅地に墜落し死傷者が出たと言う痛ましい事故も起こし、マニアを落胆させた。部隊名は”Eyes of the Corps"を長く使っていたが、1987年に”ライノウズ”に変更している。 
(1988)
(1988)

厚木の撮影ポイント”お墓”に一本人が3人まで登れる木があった、フェンス越えでタキシーウェイを見下ろす事ができ、非常に魅力的な場所だったが早い者勝ちで、毎回ポジションを確保出来るわけではなかった。1976年のこの日、私はこのポジションを得て、たまたま飛来したVMFP-3の2機のRF-4Bが、ランウェイエンドまで転がってくれたことに興奮の坩堝となった。しかし、気合が入りすぎたのかカメラのフィルム巻き上げに力を入れすぎて、この写真を撮った直後フィルムがカメラ内で切れてしまったのだ。蓋を開ければフィルムは感光してオジャンであり、慌てた私は大和駅の写真屋さんまで行って、フィルムの取り出しをした。そんな思い出の写真である。

VMCJ-1/2/3のレター”RM/CY/TN"が、”RF”1本化されすべてMCAS エルトロにVMFP-3として集められた。VMFP-3の当初の塗装は専門誌や写真集でも数枚しかお目にかかったことが無いが、コクピット縁から尾翼にかけてフィルムパーフォレーションをデザインしたラインが入ったもので、尾翼は赤と言う派手なものであった。上の写真はバイセンティニアル塗装のRF-4B(614)であるが、これもかなり派手な塗装である。塗りたて当初は機番(MODEX)が610で、下の写真のように胴体にも文字が入って更に派手であった。当時空母ミッドウェイには分遣隊(DET)として派遣され空母に搭載される際の定数は3機となっていた。
Marking of 1973
VMFP-3に統合された1973〜74年頃のマーキングとされているものであるが、写真ではVMCJ-3の文字が入っていたりして、正確な時期は不明。但し、左図のように赤を基調とした極めて派手な装いであった。写真が少ない為 非常に短い期間使用したマーキングと推測される。

1977年8月嘉手納に着陸し、ネービーエリアに向かうRF-4B(RF-13)BuNo.156106 実は、私が写真を本格的に始めて1976年に横田基地で最初に出会ったファントムがこのRF-13番機、当時ピンボケの写真でも満足したが、嘉手納で再会できてうれしかった。

1978年後半頃から現れたロービジタイプのRF-4B、VMFP-3最初の頃のマーキングを基本的にベースにしているが、「RF」の文字は味気の無い文字体になった。但し 機種はレーダーコーンの先までグロスブラックのラインが伸びてしまりが出た。
1975年から1977年にかけてVMFR-3のRF-4Bが施していた代表的マーキング。レーダーコーンは、ホワイトでトップだけがグロスブラックであった。ネービーブルーの尾翼に書かれた3本のラインが何を表現していたのだろう。VMFP-3の”3”かもしれない。
Marking of 1975〜1977
Marking of 1978〜1979
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