日本との縁は、1950年に横須賀に派遣され、日本周辺でのASW訓練を行ったところから始まる。飛行隊の派遣先は、グァムからフィリピンのサングリーポイント、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争の関係で対馬海峡の監視、朝鮮半島のインチョン(仁川)からウォンサン(元山)海域への機雷敷設など多くの任務をこなしたようだ。
1954年にVP-47は新鋭のP5M-2を受領して、1955年には新鋭機で部隊編成を終えNASアラメダを拠点にハワイ方面まで派遣された。
VP-47は1966年1月P-3Bを受領。オライオン飛行隊で最初に空対地ミサイルブルパックを運用した部隊とされ、西太平洋方面への派遣は定例化して那覇やタイのウタパオにも分遣隊を設けるようになった。
1964年になると次第にキナ臭くなってきたベトナム方面の哨戒任務が加わり、フィリピンのサングリーポイン海軍基地トをベースにトンキン湾での活動が任務となっていった。1965年にNASモフェットフィールドに拠点を移動、P-3Aお受領している。。1966年には、再び沖縄のNAF那覇に配備された。
1973年4月 VP-47のP-3C(Bu.No.157332) RD-5が、モフェットフィールドでNASA所属のコンベア990機と空中衝突事故を起こし、5名のクルーが無くなった。尚 NASA側の機体は11名全員が死亡。
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”黄金の剣士”と言う名のP-3は、厚木では比較的よく撮影することができたVPの一つだった。尾翼には、インシグニアの錨と盾と剣をそのまま書き込み、P-3時代デザインの変更を殆どしておらず、ロービジマーキングに変更された以降も殆ど変わっていない。1944年設立の部隊で沖縄戦に参加したぐらいで、太平洋戦争時は目立った戦歴は残していないが、べトナム戦に最初に参加した部隊として記録されている他 東シナ海の北ヴェトナムの補給線を叩く活躍で表彰されている。1965年にP-3Aを取得し、1971年初頭にP-3Cに機種交換している。
←この士官は、VAP-62のPacthをつけており VP-47のクルーと行動を共にしていたが、役割は写真撮影と任務が異なるようだ。
1944年6月、バージニア州ノーフォークにおいて第27哨戒爆撃飛行隊という名称で創設され、恐らく対潜哨戒だけでなく、海に浮かぶ敵性目標に対しては爆撃で破壊する攻撃任務を負った飛行隊だった。1946年に現在のVP-47に名称変更となり 太平洋方面の哨戒活動に変わりハワイのカネオヘに配備された。
1970年7月 NASモフェットフィールドで オライオン最新型のP-3Cを受領。太平洋哨戒部隊として最初にC型を運用した飛行隊となった。
2002年9月三沢のOHに展示されたRD-761(160761) 久々の色付P-3Cの展示で感激であった。三沢にはPATWING-1のDET(分遣隊)としてP-3Cが配備されている。このP-3Cは、Up-dateVである。
Tail-Making of RD-761((2002 NAF Misawa)
(1992)
1986年10月VP−47は、P-3Cの最新バージョンであるアップデートVを受領、転換訓練は、VP-31から受けている。その後 1987年にNAF三沢に配備されたとある。
(1992)
(1992)
(1992)
(1992)
1952年11月VP-47は、岩国基地に拠点を置き、黄海方面と日本海のパトロールについていた。使用機は、PBNマリナ―。この年は、朝鮮戦争も中共軍の介入で膠着状態が続き停戦も模索されていた時期に当たる。停戦は、1953年。
(1992)
↓ 1999年嘉手納で撮影したP-3C。20年ぶりの沖縄嘉手納で出会ったP-3Cは、VP-47とVP-4で、どちらも完全なるロービジ・マーキング。
(2002)
(2002)
(2002)
(2002)