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Pege-2
F-1戦闘機は、4次防(第4次防衛力整備計画)原案では、4個飛行隊126機が計画されていたそうであるが、オイルショック等の経済不況のあおりを受けて、第一ロットの生産が2年遅れた上に、最終的には4つ目の飛行隊も実現しなかった。仮に実現したとしたら、どこの基地に配備を考えていたのだろうか・・・・敗戦からの後遺症で、防衛費に対する風当たりが強かった中、米ソ冷戦で4次防迄は比較的順調に防衛費の増額が認められてきたが、いざ経済不況となれば、防衛予算は真っ先に叩かれ、当時計画されていた第5次防衛力整備計画までポシャってしまった。但し 仮に有事ともなれば航空自衛隊は、制空戦闘ばかりでは済まず、地上や海上における支援攻撃がどうしても必要となるのである。戦闘が長引けば、逆にそちらの方が主になっていく可能性が高い。ナチスドイツに攻め込まれたイギリスも、ハリケーンやスピットファイヤー戦闘機だけではバトルオブブリテンを制しても、最終戦には勝てなかったはずだ。やはり地上攻撃が出来るタイフーン/テンペスト/ブリストル・ボーファイターそしてランカスター爆撃機があってこその勝利なのである。F-1が本格稼働する前の航空自衛隊は、制空戦闘がほぼメインだったため、F-1の存在はそういう意味でも大きな転換の第一歩となった筈である。
↑ 1981年9月の三沢基地航空祭は、1980年の曇天と比較して、天気の良い穏やかな1日だったそうである。上の2枚は何れも渡辺明氏による3sqの列線
↑ 1981年5月の横田基地航空祭に展示された3Sq/207号機。渡辺明氏撮影
↑ 1980年9月 デモフライトを終え観客の前をタキシーする第3飛行隊のF-1。曇り空で暗かったせいか、クリスマスツリーとも呼ばれていた編隊灯を灯しての滑走だったが、私にとってはF-1のタキシングを目の前で見れた最初の贅沢な時間であった。この年の航空祭は、朝鮮半島のクンサン基地から米空軍のF-4Dが飛来していたが、これがD型ファントムの最後の姿で、クンサン基地も新鋭のF-16Aに切り替わる予定で動いていた。(1981年9月にクンサン配備)航空自衛隊も米空軍も新しい世代の軍用機に切り替わる時期にあったのだ。この1980年に日本の自動車生産は世界一となり、1991年までの10年少々は景気はバブル時代と言われる程、活況を呈して行くのである。
↑ 展示が終了し、アーミングを解除するF-1の整備員たち。百里基地のF-4EJ展示でも、同じようにMk-82爆弾(訓練弾)の爆装展示がされたが、爆撃照準装置を外されたF-4EJは、実際は目視で投下するしかない全くの見かけ倒しであった。しかし このF-1は正式な爆撃照準装置を備えていたので、正確な投弾が可能となっていたのである。
↑ 空対地ロケット弾、隊員の身体と比較して恐らく127㎜ロケット弾の模擬弾を収容する作業風景。写真のトレーラーの左の箱は、20㎜ガトリング機関砲弾の収納BOX。
3rd Squadron
↑ 1980年9月の航空祭にて3Sqの列線を捉えたもの(渡辺明氏撮影)