HOME
NEXT
click here
↑ 1985年11年入間基地に展示されたF-1/270号機。エンジンカバーには、各機オリジナルの兜武者が書かれている。
↑薄暗い曇り空の中、編隊飛行の為にR/W10に向かう第3飛行隊のF-1/T-2の面々。編隊灯が綺麗に輝く。3sqに配属されていたT-2は何れも後期型で、20㎜バルカン砲を装備していた。
↑1985年10月 16機編隊の構成は、第3飛行隊 11機/第8飛行隊 5機であった。第3飛行隊から参加の機体は、F-1が、202/207/220/234/235/241/242/244/249/250/267とT-2/49-6190が離陸、その内1機は予備だったと思われる。
↑ F-1戦闘機の各機は、両翼と胴体下に220ガロンの増装燃料タンクを3本抱えた移動訓練中ならではの姿で飛行している。F-1のカタログ性能で、増装タンク3本を付けた場合の最大航続距離は1400カイリ(nm)で、キロメートル単位で約2600Kmをを移動できる。航続距離が短いと言われたF-1も、片道であれば北海道から沖縄までは、ほとんど問題なく移動できたわけである。
↑ 装備品の展示として赤い爆弾型のものは、曳航して使われる超高速ミサイル標的。ロケット弾ポッドも2種類展示、奥のは127㎜ロケット弾4発収納用PL-4/手前の収納本数が多いのは70㎜ロケットのランチャーである。267号機は、この後8Sqに移動。
↑ 1985年の三沢航空祭は、前年の1984年に配備が開始された432d TFWのF-16A/B部隊との初めての競演が期待されたが、天候は生憎の雨模様、雨が上がっても空は鉛のように暗い中、F-1は、16機の大編隊を組んだ。第3/第8飛行隊の所属するT-2高等練習機にもF-1と同じ迷彩が施されていた。この年3sq所属のT-2は、186号機(49-5186)と190号機(49-5190)
3rd Squadron
Pege-5
1984年は、アメリカではレ-ガン大統領が再選を掛けた大統領選で最終的に地滑り当選となり、二期目を確定させた。一方日本では第2次中曽根内閣がスタートして、日米は強固な連携を取りながら東側諸国との対決姿勢を堅持していき、政治的にも安定期に入ろうとしていた。片やソ連の方はアンドロポフが死に、病気がちのチェルネンコがエスカレータ式に書記長になったが、ブレジネフ時代のような長期政権は難しいと考えられ、政治的に不安定な状況であった。この年、東アジアの防衛強化の一環として、三沢基地に第432戦術戦闘航空団が配備され、日本本土で唯一のF-16A/B戦闘機航空団がスタートとした。F-1の対艦、対地攻撃能力と共に、沿海州や極東ソ連軍のレーダー網、防空施設を叩ける長い槍が三沢に備わった事になる。F-1部隊もローカルでの訓練だけでなく、日本全国にスムーズに展開できる能力が求められ、移動訓練も増えて行くのである。(2024年2月 記)
↑ 1984年10月 久々に百里基地に行ってみると、そこは移動訓練で来ていた航空機で一杯だった。4空団(松島)から8機のT-2高等練習機が飛来しており、写真でお判りのように三沢から8機のF-1が移動訓練で百里に展開していた。211号機は、この後6Sqに移動している。
↑ 百里の旧アラートハンガーが見えるが、当時R/W-03側ピン抜きエリアは、農地からの撮影が可能で、午前中はタキシングが撮れる絶好の場所だった。1984年10月当時は、204SqのF-15C/Dが配備され始めた頃で、未だ301Sqと305SqのF-4EJは百里におり、901SqのRF-4Eもいたことから、実質4個飛行隊が混在していたのである。それに移動訓練部隊が加われば、1日のフライト数は相当なものであった。