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1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、12月当時のアメリカ大統領レーガンとソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ島で会合して「冷戦の終了」を宣言した。1947年にイギリスの首相チャーチルが「鉄のカーテン」が降りたとして始まった所謂「冷戦」は42年間の緊張状態から一気に緩和に向け舵が切られた。、翌年の10月には東西ドイツが統一され、次々に東欧諸国の民主化も始まる。国内に目を向ければ海部・宮沢内閣で自民党も末期状態となり新生党の細川内閣が成立、長く続いた55年体制が崩れて行くのである。冷戦終結という世界情勢に日本でも軍縮ムードが高まり、これ以降防衛予算への風当たりは強くなって行くことになる。陸自中型汎用ヘリは1989年にUH-1Hを大幅に改良したH型改が12機予算化され、これが後にJ型と呼ばれることになるのだが、1990年代はJ型の量産が始まり、H型の用廃が始まって行くのである。このページでは松野氏が1990年代から2000年代に掛けて撮影されたUH-1Hの最後の雄姿を中心にご覧いただきたい。
↑2022年に霞目駐屯地で撮影した東北部ヘリコプター野整備隊の整備訓練用のUH-1H/41705。既に用廃済の機体ではあるが、飛行可能ではないかと思われるほど保存状態は良好である。
↑松野氏が2015年に立川駐屯地で撮影された東部ヘリコプター野整備隊(Eastern Army Air Field Maintenance)の整備訓練用のUH-1H/41714。既に飛行は出来ない用廃済の機体ではあるが、2011年の11月の立川駐屯地祭では現役のUH-1H/41732がまだ飛んでいた。また2015年の丘珠駐屯地祭ではUH-1H/41727が用廃前の姿で確認されているそうである。
↑ 同じく松野氏が2011年に習志野演習場で撮影された東部ヘリコプター隊第1飛行隊の所属UH-1H/41709。皆さん御馴染みの87式地雷散布装置を両サイドに付けている。このポッドには18個の対戦車地雷が収納されており、2個で36個を散布できる。機首のVマークは東部ヘリコプター隊第1飛行隊を示す。
↑ 松野氏が2011年に習志野演習場で撮影された東部ヘリコプター隊第1飛行隊の所属UH-1H/41714
↑ 同じく松野氏が2011年に立川駐屯地で撮影された東部ヘリコプター隊第1飛行隊の所属UH-1H/41716。奥に並走しているJ型と迷彩パターンは同じでも、迷彩色の一部が異なり、カーキ色の部分がH型は赤みが強く、J型は黄色が強い事がはっきり見て取れる。
↑ 同じく松野氏が2011年に立川駐屯地で撮影された東部ヘリコプター隊第2飛行隊の所属UH-1H/41725。B型と異なり、ホイストが完全にキャビン内に収められていることが判る写真である。
↑ 松野氏が2011年に立川駐屯地で撮影されたUH-1H/41725。機首のステッカー状のマークには”EAH 2 Avn”とあり、東部ヘリコプター隊第2飛行隊の所属を示している。
↑ 松野氏が2011年に立川駐屯地で撮影されたUH-1H/41715。後期型の特徴の一つ”EH”と書かれた上部の小窓が良く判る写真。機首のステッカー状のマークには”EAH
1 Avn”とあり 東部ヘリコプター隊第1飛行隊の所属を示している。
↑ 松野氏が2004年に高遊原駐屯地で撮影されたUH-1H/41711。機体上部天井部分の塗装形式が判って非常に興味深い。
↑ 松野氏が2004年に高遊原駐屯地で撮影されたUH-1H/41730。後方にいるのは恐らくJ型で迷彩色のカーキ色の部分がH型と異なっているのが判る。
↑ 松野氏が1994年に北富士演習場で撮影されたUH-1H/41663。総演の「状況終了」後 一般展示されたものである。
↑ 松野氏が1992年に習志野演習場で撮影されたUH-1H/41646。乗っている空挺団の隊員の迷彩服は初代の迷彩服1型である。
↑ 松野氏が1989年に撮影されたUH-1H/41700 量産100号機に当たる機体。後期型でキャビンの窓が追加されている。
↑ 松野氏が1994年に北富士演習場で撮影されたUH-1H/41655。