第5大隊
5th AIR GROUP
現在は、高い塀で基地の外周を囲むようになったが、以前は所によっては柵さえも無かった。1993年のとある日、私は1992年の新竹基地の開放日に知り合いとなった台湾の航空迷(航空マニア)CCK-FOX君と桃園でF-5を撮ろうと降りのポイントに向かった。そこは、水田地帯である。朝早く そのポイントにいると盛んに林の奥から戦闘機らしき機体のテーク・オフする音が聞こえる。少し 林の中に入って先まで行ってみようと歩き出した。林を越えるとまた田んぼ、田んぼの先にまた林である。音はすれど姿見えず さらに進むと 突然 下の光景(↓)にぶつかった。「うあ〜!すげ〜!」夢中でシャッターを切ってしまった。しかし しばらくして冷静に考えてみると 柵が全く無い。CCK-FOX君曰く「ここは水田だが軍の用地、農民は許可を得て耕作いているんだ」私「・・・・ ヤバイ!」 早々にここを脱出である。翌年のオープンハウスの際 我々は、エプロンの機体を撮影した後 直ぐに向かったのがここのランウェイエンドの直ぐ脇である。絶好のポイントであり OH時であれば 見つかっても問題はないと判断した為だ。1999年桃園基地は外周にレンガ造りの高い塀を完成させ、今はこのポイントも消えた・・・・突然
The Period of F-5E/F

↓ 1993年8月に桃園大園空軍基地(以下 桃園基地と略)が、基地解放された。

↑↓→ 3枚の写真は、まだ準戒厳令下にあった1983年に撮影した当時の桃園大園空軍基地である。この基地は以前はU-2偵察機発進基地であり、1980年代前半は、F-104Gの3個飛行隊が活動していたので、恐らく付近の住民以外は、基地周辺をうろつくことさえ危険があったと推測される。丁度 桃園の国際空港の中に新設された航空博物館の屋上から、これらの風景を覗く事が出来た。

F-5F/5386/80-0298

1981年突然 何の予告も無く会社「来月から台湾に行ってくれ」との辞令を受けた。中国語の研修も無く10日後には台湾に赴任する事になる。就職して関東を離れ大阪/名古屋と転勤して、今度は台湾ですか・・・台湾は準戒厳令下に在り、飛行機の写真を撮る事など御法度の国である。遂にこれで俺の楽しみも当面お預けだ、なんて思いながら台湾に向かった私のカバンには200mmレンズが忍ばしてあった(実に往生際の悪い野郎である)。台湾の国際空港に着いて迎えの車に荷物を積み込む時、突然キューンという旅客機らしからぬ音が聞こえたので目をやると、何とF-5Eが4機もオーバーヘッド/ブレークですぐ横に降りて行くではないか。この瞬間、ちょっと忘れ掛けていた軍用機への執着が蘇り、私の心に台湾空軍への執着が芽生えた。中正国際空港と平行して台湾空軍の大きな空軍基地が有ることが判明、何れは青天白日旗を付けた戦闘機を必ず撮ってやるぞと誓ったのである。(そんな大げさなことか?・・)桃園市大園にあるこの桃園空軍基地にはRF-104の部隊の他 F-5Eの実戦3飛行隊が所属していてフライト数も多い基地であった。(2002年6月 記)

(1993)

(1993)

(1993)

何とこのページの写真が多数、大陸の中国空軍ネット(中国空軍網 WWW.PLAAF.NET)に盗用されておりました。大陸の関係者も結構私のホームページをてるみたいですね。某国の事ですから 何を言っても無駄でしょうが・・

↑展示されたF-5F 序號5386

台湾の航空マニア達と私は、1つの約束事をしている。それは、絶対にタキシングの写真を公式に発表しないと言う事である。台湾の航空マニア(航空迷)達は、撮影のチャンスに恵まれていない公には写真撮影を認められていないからである。しかし その情熱は、日本のマニアにも負けないほどで最近は海外渡航も自由になって 日本/アメリカ/ヨーロッパと遠征している。彼らにとってもタキシングが撮れるポイントは非常に貴重であるからで 失いたくないのだ。だから タキシングの写真はOH以外雑誌等には投稿もしない。したがって 本HPに掲載しているタキシングの写真は、彼らの了解に基づき既に撮れなくなった”失われたポイント”のみである。加えて場所の限定も極力記載しない様にしているのでご了承願いたい。(2002年6月 記)

↑ 新竹空軍基地をタキシーするF-5F 序号5398号機、この機体は2004年4月に事故で失われている。

F-5F/5398/83-0124

F-5E/5172/75-0345

↑ MM君と順光で撮れるポジションに移動しようという事になり、雑木林に囲まれた水田のあぜ道を歩いたが、何とそこは雑木林からF-5Eが飛び出てくる極めて撮影領域の狭い場所で、音が聞こえて構えてもタイミングが合わないことが多かった。

↑ 1992年夏 新竹基地の開放日に合わせて、桃園基地でもF-5E/Fの外撮りにチャレンジした。私と長年の友人であるMM君と二人で、基地周辺で着陸が撮れそうなポイントを探し、うだるような暑さの中、F-5を待ったが熱い日中は飛んでい中たのか、さっぱり飛来も無い。夕方のなって太陽が傾き始めた頃、次々に帰ってきたが、撮影ポイントは、酷い逆光だった。それでも初めて撮る台湾のF-5に我々は興奮した。

天空的戦士
1993年当時は、各戦闘機中隊のパイロットは、当時の航空自衛隊と同様 エンジのフライトスーツだった。台湾も4方を海に囲まれており 演習のレンジも殆ど海上であるため これらのスーツを使用していたが 1994年よりは、一斉にグリーンのスーツに変更された。現在もオープンハウスなどで説明員として出る時には、このエンジのフライトスーツを着用する。
一連の写真は、桃園基地の概容であるが、聯隊本部などが集まっている建物群から第27戦術戦闘機中隊のOffice、管制タワーの周辺など当時の雰囲気がお分かりだと思う。1993年当時の桃園空軍機も殆どシェルター運用の為 これら格納庫に入っている機体は整備が必要な機体だけだったようだ。

当時日本の自衛隊では高機動車が漸く試験配備され始めた時期に、台湾空軍は既にアメリカ製のハンビーが活躍していた。

↑ 時が10年経過した1993、既に李登輝政権になって準戒厳令も解除され、台湾は一層の民主化と情報の解放も行われるようになった。1993年の8月 桃園基地も一般に公開されるようになって 私も日本から赴くようになった。上は恐らく聯隊本部のビル群。

(1992)
(1992)
(1992)
(1992)
401TCWは,F-5Eの部隊として長らく尾翼に部隊マークを入れる事はなかったが、1992年以降第5大隊徽を尾翼に描き始めた。
Insignia
Wings
F-5E/F of 5AG (Taoyuen Air Base)
(1993)
(1993)
(1993)
26 TFS

(1993)

(1993)

(1993)

大隊徽は、頭に羽根を生やした”虎”であり 私は当初シェンノート将軍のフライングタイガースと何らかの関連のある部隊か推測したが、調べてみると案の定「中美混合団」としてアメリカ軍と共同戦線で戦っている様である。部隊は1936年浙江省で生まれ、アメリカ製HawkU.Vを使用していた。後にイリューシンI-15/16に更新するが、進出してきた日本海軍の零式艦上戦闘機との性能の差は歴然としており、この部隊も成都防空で大きな損害を被っている。1943年ごろP-40を受領し1945年頃にP-51D/Kムスタングも戦列に加わっている。台湾に移動して桃園を本拠地とした際は、P-47サンダーボルトに機種転換しており、この時点で17/26/27の3個中隊と言う現在の編成になったようだ。台湾海峡での大陸中国との戦いにおいては、位置的にも活動の中心的役割を負っておりMig撃墜など戦果を挙げている。この中には後に新竹基地の第499聯隊長となり、最終的に空軍総司令ともなった林文禮大将もいた。
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↑ 1993年桃園空軍基地解放時展示されたF-5E 序号5308号 最新のシャークノーズ。

F-5E/5308/81-0015

↑ 1983年に撮影したもので、写真のブレなどがあって判りにくいが、桃園大園空軍基地には多数の軍用機用シェルター(掩体壕)が見え、管制塔・水タンク・格納施設共に迷彩色でカモフラージュしている。この写真は40年ほど未公開のまま保存していたが、当基地も既に閉鎖されたので問題ないだろう。(2024年9月 追記)

↑ 1992年新竹空軍基地開放日 桃園から平して展示されたF-5E/F 台湾のタイガーUを間近に見る初めての機会だった。

F-5E/5169/75-0342

F-5F/5410/83-0094

↑ 複座型のF-5F 序号5410号(30136)

F-5E/5324/83-0094

↑ 迷彩塗装の濃淡がはっきりしていたF-5E 序号5324号(30094) 後期生産の新しい機体でシャークノーズである。また、胴体下には爆撃訓練用のポッドを付けている。

17 TFS

1993年に撮影した管制塔、迷彩ではなくなっていた。

↑ 管制塔横のエリアは、消防隊の本部があり、黄色く塗られた”空軍”表記の消防車が待機している。

↑ 第27戦術戦闘機中隊のオフィス前には、彼らのインシグニアが大きく掲げられていた。奥に見える水タンクらしき物は、1983年の遠望写真にもあるように、姿は変わっておらず、迷彩が塗り直されただけのようである。懐かしい・・・

27 TFS
Insignia of 5th AG