ベトナム戦争初期、米空軍は空対空戦闘で歴史上初めての負け越しを経験して、従来の重戦闘機路線、戦闘爆撃機重視に変更を迫られた。ベトナム戦争中盤以降、F-4ファントムの空対空能力を強化して、何とか空対空戦闘をほぼイーブンまでは持ち込んだが、太平洋戦争、朝鮮戦争と空戦では大勝をしてきた米軍が、Mig-21どころかMig-19にも毎回のように叩き落される等の屈辱を味わい、自軍の高価な重戦闘機群(F-100 F-105 F-4)の戦い方を見直す必要があるのは明白だったのだ。
其の為 米空軍ではほとんど使われなかった軽量のF-5Eを訓練用として大量に採用する必要が出てきた。海外販売用のものまで買い戻して機数を揃え、自軍の戦闘機パイロットに運動性の優れた軽量戦闘機との戦い方を教えて行くことになる。
嘉手納やクラークそして朝鮮半島に配備されていた当時の米空軍機は、すべてF-4ファントム戦闘機で、彼らへの空戦教育は喫緊の課題だったのである。
↑ 1979年6月 初夏のDACT訓練を終わり、4機でフィリピンのクラーク基地に帰投するF-5E 4機、手前からリザード、シルバー、ゴースト、パッチーズの迷彩パターンが並ぶ。
実は、これらF-5Eの中には、元ベトナム空軍への売却品も含まれている。1975年北ベトナムに占領されそうになっていた旧南ベトナムの空軍基地からなんと101機もの航空機が空母ミッドウェイに積まれ、アメリカ本国に戻っている。この中には、ヘリやA-37地上攻撃機、F-5A、F-5Eが含まれ、特に共産軍に渡る前に回収しておきたかったのが、新鋭のF-5E戦闘機だった。F5A 3機、F-5E 22機がUSSミッドウェイの甲板に積み込まれ5月にグアムに到着している。この内 F-5Eの多くは、アグレッサー部隊に回された。 上の62号機もその1機である。