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1970〜90年代、三沢航空祭は毎年秋口の9月に行われていた。私が最初に三沢の航空祭に行ったのは確か1978年9月だったが、その頃は東北新幹線等と言う便利な乗り物はなく(開業は1982年) 今は懐かしい上野駅からの東北線夜行寝台列車の乗って三沢駅に向かった。今も三沢に出かける時、一緒に行く友人は当時からの仲間である。当時、皆貧乏学生だったのでセコセコとアルバイトして貯めたお金で、やっと夜行列車の切符を買って北の彼方にある憧れの三沢基地まで足を運んだものだった。東京から見れば、何せ列車で10時間以上かかる”道の奥”・・・しかしここは米海軍のP-3も常駐したし、航空自衛隊も2個飛行隊を置いていた軍用機の宝庫。しかも展示機は、北海道から来る憧れの302sq”尾白鷲”が撮れる・・・前年の1977年航空祭では、NGのF-14Aまで参加し、展示機も魅力的でサプライズもある基地であった。
新田原に展示された"14th AMU"と書かれた機体。AMUとは各飛行中隊を担当するメンテナンスチームのことで、AMUは”Aircraft Maintenance Unit”の頭文字。但し 固有の機体を持っている訳ではないので、多分メンテナンスチームが業務上多用する指定機と言う事だと思う。左側の尾翼には”14th TFS”と書いてあり左右違いであるが、現在はこうしたマーキングは見られない。米空軍ではメンテナンスチームの技量向上に熱心で、本国から専門の監査チームの派遣され、機体の整備だけでなく武器の装着、取り外し等やリリースできなかった爆弾の処理も含め細かい評価項目で審査もされるようだ。機体は、F-16C Block30H/87-0314で、やはりオーサンの51st FWから移管されていた機体。
第13戦闘飛行隊は、ベトナム戦争時の1966年にタイのコンラート空軍基地で誕生している。創隊当時はF-105サンダーチーフを使っていたが、後にF-4Dを受領しベトナムの空を暴れまわった。30000ソティの出撃記録を有し11機のミグを撃墜している。ベトナム戦第三番目のエース ジェフ・フェステイン大尉もこの部隊で生まれたエースである。1970年には、ブラックパンサーを部隊名として採用、部隊はパンサー・パック”Panther Pac”と呼ばれていた。その後一時ペーパースコードロンとなったものの1984年に三沢で復活した。
 三沢基地は、基地が造られたのは昭和17年(1942年)である。この頃中国との戦争は始まっており対米関係は最悪、これから予想されるアメリカとの戦争を想定して、当時の日本海軍が計画した海軍航空基地だった。その同時に日本海軍は松島にも航空基地を作るが、三沢も松島も対アメリカ戦を想定して北方海域の渡洋爆撃のベースとして生まれた基地であった。三沢海軍航空隊には3個飛行隊、陸上攻撃機48機が配備されたそうであるが、どうして三沢が候補地になったのかは資料が無い。察するに三沢は太平洋に面し、東西11キロ、南北25キロの広い平野を有している事、加えて東北地方の中で珍しく西から吹く季節風の影響で降雪量が少なく、気候が安定して晴天が多い地域である要素が此処に基地を造る上で好条件と判断されたのであろう。太平洋戦争終戦後、三沢基地も米軍に接収されて、今度は北方のソビエトに対する要石として大幅に拡張されて行くのである。ちなみに民間航空が稼動始めたのは昭和27年であった。さて此処で話を戻し第432戦術戦闘航空団(432d TFW)に所属した第13戦術戦闘飛行隊(13th TFS)と第14戦術戦闘飛行隊(14th TFS)について簡単に紹介しよう。尚、1991年以降は戦術の”T”が無くなり、其々”FW” ”FS”となっている。
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1994年機体を35th FWに移管し、暫くはペーパー・スコードロンとなっていたようであるが、ネリス空軍基地オープンの写真を見せてもらったら 無人偵察機の部隊として復活していた。元々創設当時から偵察を目的にする航空団であり、RB-57Aなどを運用していた部隊であったから 昔に戻ったわけである。現在は、432d Wingとしてネバダ州クリーク空軍基地に本拠地を置き、MQ-9リーパー無人偵察機を運用する航空団である。傘下に6個飛行隊を擁する大きな部隊となっており、活動はアフガニスタンやパキスタンなども含まれると考えられる。今最もテロリストに恐れられる航空団かもしれない。

1993年浜松基地に展示された13th FSのF-16C 2機。上の機体F-16C Block30C /86-0235は、クンサンの8th FWから移動してきた機体だが、翌1994年には、ミシガン州空軍へ移動となっている。

↑13th FS隊長指定機 F-16C Block30B / 85-1490。オールアウト後直ぐに三沢に配備された機体のようで、それ迄の履歴は無い。配備当時は、白黒のチェッカーを尾翼に付けていた。この機体も翌年にはミシガン州空軍に移管された。h

↑1993年9月 三沢に展示されたF-16C”86-0355”。尾翼のチップが2個中隊の色分けになっており、インテークのマークは432d FWのものであることから、航空団の直属管理の機体と推測する。このMJ-355は、後にオーサン基地の51st CWから来た機体だが、三沢に数年いただけで、1995年にはイリノイ州空軍に移管された。
13 th FS
第14戦闘飛行隊は、元々偵察機の部隊としてアメリカのコロラド州で設立されている。P-38やイギリス製のスピットファイヤー等も使用した部隊で、偵察飛行隊としてバークスデールAFBでRF-4Cを使ったのが最後であった。戦闘機部隊としての復活はやはり1985年の三沢配備からである。ニックネームは、戦う侍 ”Fighting Samurai”
13th FSのコマンダー指定機(MJ-495)Block30B / 85-1495。フィンチップは赤で、星が3つ入っている。13th FSは、2つの飛行隊で先にF-16C/Dのブロック50を受領し、対地攻撃能力を強化している。この機体は、後にインディアナ州空軍に移管された。ちなみにこの次の85-1496も432d TFWの所属であったが、1992年1月22日にハワイにトランスパック中、空中給油時のトラブルで墜落。搭乗していたジョン・ドーラン大尉は、脱出して無事であったが、冬場の太平洋を漂い低体温でギリギリの段階で運よく海自のUS-1に救助された。尚2015年ドーラン氏は中将に昇進して、在日米軍司令に就任している。この機体は、1995年にインディアナ州空軍113rd FSに移動し、”TH”のレターを付けるようになった。

↑ 1994年横田基地に展示された2機のF-16C。航空団司令官指定機となっていたのは、MJ-330 (87-0330)。それまでの白黒、黄黒のチェッカーから完全に黄帯/赤帯の単色に切り替わっている。F-16C Block30J/87-0330は、朝鮮半島の51st FWから移動してきた機体だが、1996年には、ニューメキシコ州キャノン空軍基地に移動している。そして悲しい事に2001年5月21日にキャノン空軍基地での訓練中、事故で失われた。幸いなことにパイロットは軽傷で済んでいる。

↑ 翌1994年の浜松基地に展示された14th FSのF-16C。エンジンカバーも既にスコードロンカラ―のものを用意していた。翼端には、AIM-9Lのダミー弾が付いている。機体は、写真上が、F-16C Block30J / 87-0334。下が、Block30H / 87-0296。両機共に1995年には州空軍に移管され、三沢を離れている。

↑ 1993年百里のタキシーウェイを離陸の為に滑走する2機の14th FS所属F-16C。第14戦術戦闘機中隊の隊長指定機(MJ-292)は、尾翼の黄色いラインに白い星が入っている。機体は、F-16C Block30H / の87/0292と87-0291で、両機共に2年後の1995年にキャノン空軍基地の27th FWに移動している。
14 th FS
Wings