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↑ 1977年11月にカルフォルニア州エドワード空軍基地で撮影されたB-1A(74-0160)。B-1爆撃機プロトタイプの3号機に当たるが、プロトタイプ2号機が強度試験に使われていた為、エドワード空軍基地で飛行試験を受けたのは3号機の方が早い。因みにB-1Aプロトタイプは、1号機(74-0158)、2号機(74-0159)、3号機(74-0160)、4号機(74-0174)と続く。この時代の爆撃機のプロトタイプの色が真っ白なのは、核爆弾の爆発閃光を出来るだけ反射させ機体への影響を慧眼させようとする意図があったそうである。
↑ 機首に書き込まれた”SACバンド”と呼ばれたアメリカ空軍の核攻撃戦力を担う”戦略航空軍団”のマークである。当時B-52の後継機として期待され開発されたB-1Aは、潜水艦弾道ミサイルや大陸間弾道弾と共にアメリカの核戦力3本柱となる事を目的にしていた。前2者は一度発射させたら、キャンセルややり直しが利きにくいが、戦略爆撃機はキャンセルがかかれば途中で引き返せるメリットもあった。しかしソ連の防空網の進化により、航空機でのソ連核爆撃は現実的ではなくなってきた事から、ジミー・カーター政権によってB-1爆撃機開発計画はキャンセルとなってしまった。

私の大学一年生時代、当時のアメリカ大統領ジミー・カーターの著書が第一外国語の教書に使われていた。選挙戦当時は”カーターWHO?”と言われるくらい無名のアトランタ州知事が、あっという間に大統領になり、今までの大統領と違い親しみやすい雰囲気の人だったので、これでアメリカも何か大きな変化が起きるのかの期待した時期だった。彼は若い頃原子力潜水艦の乗組員であった。この著書は軍役に付く時の様子(当時は徴兵制)が書かれており興味深く読んだものである。
全然次元の違うところで、私はロックウェル社が開発していた新型爆撃機B-1Aの開発中の姿をテレビなどで見て、その美しさに惚れて配備される事を楽しみにしていたが、カーター大統領は何とこのB-1爆撃機開発計画を経費が掛かりすぎるとして、1977年見事に白紙に戻してしまった。この時 私は大いに落胆し「潜水艦乗りは、飛行機のことを分かってないね!」などと勝手に腹を立てていたが、今のB-2は、確かカーター時代に構想が持ち上がった爆撃機と記憶している。一体どっちが金の掛かる飛行機だ・・・その後イラン革命の勃発で、アメリカとイランとの関係が急速に悪化、テヘランのアメリカ大使館が占拠され人質が長い間拘束された。救出作戦の失敗や、ソ連によるアフガニスタンへの侵攻もあって、アメリカはすっかり面子をつぶされ、カーター氏は1期で大統領を降りることになった。ひ弱い大統領との印象をぬぐえ切れなかったのだ。次に大統領になったレーガン大統領は、”強いアメリカ”を目指し1981から1989年までふんだんに軍事予算を計上し、海軍などは軍艦600隻構想をぶち上げていた。こんな中で改装されたB-1Bは、100機を限定で生産がされることになり、それまで計画中止で写真の撮れる飛行機では亡くなっていたB-1の復活劇に大喜びしたものである。何せ細身に見えるB-1BがB-52より爆弾搭載量の多いと言うところから驚きであるが、このスマートな機体に大きな可変翼をつけて戦闘機並みの機動力を持つと言うところがすごい!今でもシャッターチャンスは少ないが この機体を少しずつ紹介していきたい。(2006年2月 記)

ロックウェルインターナショナル社とは、当時あまり聞きなれない社名だったが、ノースアメリカン社の流れを汲む会社であり、ノースアメリカンと言えば航空ファンなら知らない人はいない。往年のP-51ムスタング、B-25爆撃機、快速X-15、T-6テキサン(まだまだ元気である)、RA-5 ビジランティ、F-86セイバー、F-100等等数えれば切りの無い名機を生んでいる航空界の老舗である。最近まではスペースシャトルのNASAの主契約先として、設計から打ち上げの手配まで担当していたが 宇宙部門をボーイング社に売却したので 航空関係者にはあまり目立たない存在になってしまった。
この会社がB-1を開発するにあたって忘れることができないのが、XB-70バルキリーの存在であろう。全長185ftと言うから60メートル近い巨大な機体に 馬鹿でかいエンジンを翼の下に6基も並べた巨鳥であった。何処に爆弾積むの??と頭を傾げるような形態をしていたが マッハ3.3で航空をブッ飛びソビエト連邦に核爆弾を落とす予定で莫大な経費を使って開発されたものの、結局「このICBM(大陸間弾道ミサイル)の時代に、共距離爆撃行なんてナンセンスなんじゃないの・・」と言うことで、計画はご破算になってしまったのだ。(バルキリーのテストフライト中に墜落事故で殉職したクロス少佐が哀れである) それでも爆撃機にこだわるSAC(戦略航空軍団)の執念で、今度は高高度ではなく”地べたを這いずる様に飛び回る爆撃機”を開発したいとの事からB-1計画はスタートした。
しかし・・・・・
民主党カーター政権時代から 共和党の次の大統領候補として名前が挙がっていたレーガン氏は、カーター君の弱腰外交に鋭い批判を行い、よくニューズウィーク誌などには弱そうな保安官のカーター君に揺さぶりをかけるガンマン姿のレーガン君の姿を描いた風刺漫画が掲載された。正に保安官の地位を狙う悪いガンマンのように書かれていたが、カーター保安官が「ライフル(B-1)なんて飛び道具、この町には必要ない・・」と言って排斥したものを 「そんな平和主義を唱えているから よそ者(ソ連)をのさばらせるんだ!」とレーガン保安官になったとたんに買い戻したようなものである。どっちが良いかと言っている訳ではなく、政治とは常にそう言うものであり B-1も政治に揺さぶられた代表的な爆撃機だったわけである。カーター政権時代は、大統領だけでなくB-52やC-5AギャラクシーですらB-1発注のライバルとして、前に立ちふさがった。B-52を延命しようとするボーイングの一派は、クルージングミサイルの搭載をもって有人爆撃機の敵地進入を時代遅れとした。C-5Aはと言うと、何とICBMをお腹に積んで哨戒飛行をするというプランである。一般にICBM(大陸間弾道弾)は、発射したらキャンセルが利かない核報復手段であったから、C-5Aに積んで空中発射できるようにしておけば、敵の先制核攻撃があった際に確実に報復が出来るので撃ち間違いがないというわけである。ロッキードもボーイングも全くよくやるよ・・・であるが、大きな金が動くとなると 空軍対海軍の予算取りどころか 空軍内部でも政治家を使ったロビー活動が盛んに行われB-1は、その優秀な性能にもかかわらず一時は日の目を見ないで終わるかに見えたのだ。し
一度キャンセルになったが ロックウェル社は試作4号機をもって 試験機として細々と飛行実験を繰り返していた。しかし 結果として この時間をかけてゆっくり試験を繰り返し 欠点を改善してきたことが後で功を奏すことになる。
”B-1”と”Bone”骨ともじったノーズアート、海賊旗に見立てた髑髏のパイロットとクロスボーン・・私の一番好きなノーズア-トであった。
B-1A(74-0174)を改造してB型の試験機として使われたB-1Bプロトタイプ4号機。1982年9月ファンボローの航空ショーに始めて展示された。コールサイン”はWery
20”で、当時注目された砂漠迷彩である。一つ上写真の3号機との外形的な違いは程んどないが、見分けがつくのはレードームまで迷彩が施されていたのが4号機だった。因みに2号機は、暫く白のままでテストされたが、後にSAC配備される量産機と同じダークグリーンとエアクラフトダークグレーの2色迷彩が施されている。
↑ アメリカのエドワード空軍基地で翼を休めるB-1A 爆撃機プロトタイプ3号機。1977年11月の撮影で前脚カバーに3号機を示す”3”の表示が見える。A型はパイロットの脱出方法として、コクピットごと丸ごと分離して切り離すカプセル方式を採用していたので、コックピット後方の膨らみが見えると思うが、カプセル切り離し後の安定翼が組み込まれていた。F-111と同じ方式であったが、大きさはF-111に比べかなり巨大になったので、システムの大型化に伴って開発経費と生産コストの上昇を招くとこになり、これもB-1計画中止の原因の一つと考えられる。
↑ 1980年10月エドワード空軍機に駐機するB-1Bプロトタイプ(74-0160)。A型プロトタイプ3号機を改造してB型のアビオニクス試験機としてテスト中の様子である。カプセル式の脱出装置の廃止、エンジン出力の低減による設計変更などで、1機当たりの単価を下げて低空侵攻の戦略爆撃機として復活させようとするもので、3色の砂漠迷彩を施されていた。冒頭の白いB-1Bと比べ背中のストレーキが目立つが、この中に各種のアビオニクスが詰められて、試験を受けている。
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