F-104 Page
Luke AFBのメイン・ゲート前に飾られているGate-GuardのF-86F。2機の内、右の塗装は朝鮮戦争時代に多くのエースを輩出した4th FIW/335th FISのものである。アリゾナの灼熱の太陽の下、機体の上は目玉焼きが直ぐ出来そうに熱く焼けていた。この機体の他、ゲートの中にもF-84など数機が別に展示してあった。40年以上前の話であり、今はどうな様子だろうか。
アリゾナ州の州都フェニックス(Phoenix)。 サボテンと砂漠のフリーウェイ10を走り抜けると忽然と現れるスモッグに霞んだ超大都会に驚愕した。こう言う驚きは後にラスヴェガスを見たときも体験したが、広大なアメリカの国土を身体に感じながら延々と何時間も砂漠を車で走ると、ブレーキに足を移すことが無くアクセルばかり踏んでいるので、脚がしびれてしまうほどである。そんな中で砂漠から突然高層ビルの林立する近代的な町並みが現れると”未知との遭遇”のような非常に異質なものに出逢った様な不思議な気持ちがするものである。街を抜けるとまた砂漠である・・・(2002/8/6 記)
F-104Gの”G”はGermanのGである。「そんなこと説明せんでも判かっちょるわ!」とお叱りを頂きそうであるが、この戦闘機からではないだろうか、輸出先の国名の頭文字を機体の型式につけるようになったのは。
 F-104に殆ど興味を示さなかったアメリカ空軍に早い段階から見切りをつけ、海外向けに営業活動にシフトしたロッキード社は、その国毎の国内事情をよく研究しF-104の仕様も要求にマッチングさせるようにあらゆる努力を惜しまなかった。その結果、西欧のNATO陣営諸国を中心に多くの売込みに成功しわが国にも”JAPAN型”を採用したのだ。今でこそ開発時点で輸出を前提に「F-15I」だの「F-15J」だの「F-15K」だの型式に国の頭文字を使う事が普通のようになったが、F-104こそ、その先駆けとしてそれを行った第一級の”輸出専用戦闘機”なのだ。
 
ご覧のように殆どのF-104Gは胴体下にディスペンサーをぶら下げている。つまり爆撃訓練をしているわけである。航空自衛隊のF-104Jと西ドイツ空軍のF-104Gの決定的な違いが、”F-104の用途の違い”であったことは、航空機の事に多少の知識がある方ならご存知のはずだ。西ドイツのF-104Gは、その高速性能を生かして東欧のワルシャワ条約機構軍基地内に 深く進入し戦術核爆撃を敢行することにあった。その為 高速で低空侵入をはかる役割を このF-104に負わせたわけだが、こんなことをこの単エンジンで しかも翼面積が小さくエンジンが故障すれば滑空も出来ないこのF-104でやらされたパイロットは実に気の毒であった。10日に1機の割合で墜落事故が発生し”未亡人製造機”の名前まで付けられたは有名な話である。 
Wings
Maingate of Luke AFB (1980)
Insignia of 58th TFTW
大都市フェニックスの中心部から西へ車で30〜40分走った所に、当時の航空マニアにとって憧れのアメリカ空軍ルーク空軍基地 (Luke AFB)があった。何故憧れだったのか、それはアメリカ本国で唯一F-104の部隊が撮影できる基地だったからである(プエルトルコANGもあったが)。此処の飛行隊はもちろん実戦部隊ではなく、合衆国が西側諸国に売りつけた”最後の有人戦闘機”のパイロット養成訓練を一手に引き受けていた組織であり、当時最も多数のF-104を購入した西ドイツ空軍のパイロット訓練が、58h TTWの主なる任務であった。 
1970年代の終り頃から1980年代の初めに掛けて、ここルーク空軍基地にはF-104Gの他にF-4C、F-15Aと3世代に渡る機体が一同に混在して活動しており、正に戦闘機発展の流れをそのまま捉えることが出来る基地だった。西ドイツ(当時)は確か700機以上のF-104G/TF-104Gを導入した為、ルークAFBで多くのパイロットが訓練を受けており飛行回数も非常に多かったと記憶する。ドイツ空軍のパイロット訓練は、F-4Fについてはカルフォルニア州のジョージ空軍基地が受け持つようになり、これが閉鎖後はニューメキシコ州のホロマン空軍基地が担当していた。
F-104Gは、リットン社製のLN-3というアビオニクスを搭載し極めて優秀な戦術戦闘爆撃機に変身していた。F-111で注目された地形追従機能/自動高度保持能力/全天候爆撃機能が与えられ、それに精密な機動が取れるようにコンピューターが制御できるようになっていたのである。ワルシャワ条約機構軍の圧倒的な物量に対し、万一戦争が勃発した場合、西ドイツ空軍は米軍管理下にある戦術核爆弾をF-104Gに積んでスプラングル発進の如く飛び立ち、東ドイツ/ポーランドの重要な軍需施設と移動するワルシャワ条約機構軍の地上兵力に対し低高度から戦術核爆弾をお見舞いするわけである。その為、通常からこれら重要施設は航法用のCPに入力され、パイロットは自分で目標を探すことなく自機のコンピューターの示す目標まで移動し、爆弾をリリースするだけであったと言う。
渡辺 明さんの世界

人の出会いとは不思議である。1977年と言えば私が航空機写真に没頭しのめり込んでいた時期であるが、この頃、航空情報誌に衝撃的な記事の連載があった。1977年2月と3月号の航空情報に連載された”アメリカ西海岸基地めぐり”は、渡辺さんが1975年8月にカルフォルニア・アリゾナを中心に基地巡りをした撮影旅行記であったが、当時米軍機に没頭していた私にとって、この記事の内容は羨望の極みと言える内容だった。それこそ紙に穴が開くほど繰り返し読み、1980年のアメリカ撮影旅行の切っ掛けともなったものだ。ふとしたことからネットを通じ、この一連の記事に出てくる人物で、渡辺さんの友人として彼の撮影をサポートしたアメリカ人(元海軍航空隊士官)から航空情報のこの記事のコピーがほしいと言う要請を頂き、アメリカまでコピーをして送ってあげたことがあった。その時は私も渡辺さんとは面識もなく、多分 このアメリカ人も現在は渡辺さんとの連絡が取れないのであろうと推測し、暫くはこのアメリカ人とネットでのメール交換などをやっていた。

それから数年後2008年4月である・・・私の弟は自動車部品の会社勤めをし模型造りが趣味であるが、会社の先輩に同様な趣味を持つ人がおり最近交流を深めたと言う。その方に弟が「私の兄は航空機の写真撮影が趣味である」と話した所、以前その方も航空機の撮影に没頭され自主出版で自衛隊のシリアル関連の本まで出したそうで「その本をお兄さんへと」進呈してい頂いたそうだ。弟が持ってきたその本を見ると、その著者はなんとあの渡辺明さんとなっていた!・・なんという縁だろうか。今 渡辺さんはアメリカ在住、私は某国在住であるが、メールを通じ交流をさせていただいている。現在、渡辺さんは軍用機の撮影からは離れ模型を制作するための資料として航空機の詳細部分を撮影されることが多いそうだが 模型つくりにおいては全米コンテストでダントツ1位に輝くほどの腕前である。

渡辺さんが私のHPに賛同頂き、以前撮影された多くの貴重な軍用機の写真を提供してくれたので機会を見ながらHPにUPしていきます。
下はその第一弾ルークAFBのF-104Gの素晴らしい写真です。
西ドイツ空軍(現ドイツ空軍)のF-104Gについて 極めてよく取り纏めているHomePageを紹介しましょう。元ドイツ空軍のF-104Gのパイロットでもあったヘルベルト・ピッツマイヤー氏のHP!訪問して見るだけの価値あります。私の写真も載ちゃってます。
渡辺さんの記事から〜

・・・・ディーキング曹長は、滑走路の先端に私たちを連れて行ってくれた。滑走路の端と言うと基地の金網を連想するが 砂漠のど真ん中にあるルーク空軍基地には金網などはない。どこからどこまでが基地なのか全くわからない。とにかく滑走路の先にはどこまでも広がった砂漠があるだけだ。ここは1年を通じてほとんど雨が降らない。真青な空に、F-104やF-4が4機ずつエシェロン編隊を組んで訓練飛行から帰ってくる。一度上空を編隊でフライパスすると、やがて編隊を解いて1機ずつ降りてくる。私の立っている場所からは、135mmレンズで接地の瞬間がバッチリ写せる。・・・・航空情報 1977年3月号掲載
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