T-38's Page

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タロンとは、猛禽類の爪の事である。猛禽類はご存知の通り狩りを行う際、鋭い嘴ではなく強い爪の力で獲物の息の根を止める。故にタロンは、本来強力な武器に通じる命名だが、T-38の華奢なボディには何かしっくりこないネーミングに感じる。
 T-38の開発は、1950年代に遡る。J-85というGE製の軽いエンジンを搭載した戦闘機開発(F-5Aの原型 N-156F)をアメリカ空軍の戦闘機に提案していたノースロップ社は、それが全然受け入れられないのを悟り、練習機(N-156T)として空軍当局に提案し直した事から話がスタートする。

 当時のアメリカ空軍は、F-100からスタートしたセンチュリーシリーズと呼ばれる重戦闘機時代に突入しており、爆撃のできない軽戦闘機には目もくれなかった。F-105のような爆弾倉まで持った戦闘爆撃機こそが花形とされた時代だった。ある意味、今でもその思想は根強く残っている。一方 ジェット練習機と言えばT-33が当時は主力で、新規の高等練習機が求められていたのである。T-38の設計完成は1958年1月、1959年4月にエドワード空軍基地でT-38の原型1号が進空した。出来上がったT-38は飛行特性に優れ、操縦しやすく、また多種の任務をこなすことができる実に使い易い飛行機だった。

エンジンはアフターバーナー付のJ-85-GE-5J。1960年には会計予算で完全生産機50機が承認されて生産開始となった。1961年テキサス州ランドルフ空軍基地の3510th TFTWに1号機が配備。1958年から1970年まで(会計年度)の生産奇数は1141機まで膨れ上がり、アメリカ空軍の訓練機の主力の座を確保した。(2006年3月 記)

上の写真は、1980年3月ネリス空軍基地にて撮影したもので 4日間の外撮りで唯一撮れた白のT-38A/61-3923であった。尾翼のインシグニアと黒/黄のチェッカーラインからネリス基地所属 57th FWWのものであろう。インテーク横のマークはまさにそれを表している。この機体その後AT-38Bに改造され 最後は、テキサス州のシェパード空軍基地で地上でも各種書き装着訓練などに使われるGAT-38Bとして最後の勤めを終えた。その頃は尾翼に「ST」のテールレターを入れていたが、今はラッセル軍用博物館に展示されているそうである。
Wings
2019年11月 カルフォルニア州パームディールのジョーヘリテージエアパークに展示されていたT-38A。リーズAFBの塗装であった。

ウィリアム空軍基地と同様、1990年代に閉鎖された有名な飛行訓練基地としては、テキサス州ラボック市郊外にあったリーズ空軍基地(Reese AFB)が挙げられる。"Lubbock Army Field"として1942年に完成した飛行場であるが、当時は第2次大戦に突入した頃である為、陸軍はテキサス州に沢山の訓練基地を造り、前線に送り出す戦闘機や爆撃機の卵を育て太平洋戦線やヨーロッパ戦線に送り出さねばならなかった。この基地でも大戦中7000人が巣立っていったそうである。陸軍航空基地は、大戦後そのまま新生アメリカ空軍の訓練基地となっている。

 Reese AFBも例外にもれず、空軍の訓練基地として拡張もされ、2本の大型滑走路と一本の補助滑走路を持つ大きな基地であった。Reese AFBにT-38Aが配備されたのはウィリアムと同じ1963年である。ここを本拠地とした第64飛行訓練航空団の元で多くのパイロットが育成された。1997年のこの基地が閉鎖されるまでの間 25000人のパイロットが巣立ったと記録されている。

リーズ空軍基地のT-38Aのマーキングの特徴は、尾翼のテキサス州旗と「LB」のテールレターである。1990年代の空軍基地オープンハウスでは、結構展示機として参加しているので 多くのマニアが撮影している。その中で航空団の顔として使われたのが 上から2番目のイラストT-38A/70-1564で ”Reese01”と尾翼に書き込まれ 黒のラインは、機首まで延ばされていた。パイロット達のの卒業記念撮影のバックとしても重宝がられた。
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↑1980年3月にルークで撮影したもう1機のT-38A/63-8169が上の写真である。機首上部から延びる黒のラインが コクピットの後部座席まで伸びている。尾翼には、TACのインシグニアが入り 戦術戦闘航空団の所属であるが 資料によるとニューメキシコ州ホロマン空軍基地の479th TTWの所属だったようだ。

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