F-111's  Page
アイダホ州・・・この名前で思い浮かぶのは、どこやらの食品メーカーが売っていたポテトチップスの名前、そうCFでさんざん聞かされた”アイダホ・ポテト”ぐらいである。まぁ他にアイダホについての知識が無いせいでもあるが,とってもとっても田舎の州である事は間違いない。1980年3月 我々が訪れた時のアイダホの地は 寒くまた天気も悪かったせいで木々はまばらに生えているものの 実にうら寂しい荒涼とした風景であった。アメリカ大陸の砂漠でも南のアリゾナ砂漠は、台地が赤くサボテンも伸びていて西部劇の背景そのものであったが、アイダホの砂漠は灌木こそ生えているものの灰色の世界に見えた。

 アイダホの州都はボイジーで、空港に立ち寄った我々は民間空港に同居していた州空軍の機体を撮影し、目的のマウンテンホーム空軍基地へと向かった。地図を見ると一本の大きな道路に入れば基地まで簡単に行けそうであった。フリーウェイを下りて基地に向かう道は、田舎にしては良く整備された大きな道で、地元への配慮から造られたものかと思っていたが、なんと枝道など全く無いまま真っ直ぐ基地のメインゲートに直結する道路になっていた。流石アメちゃんスケールがでかい!!ゲートに向かう途中に小高い丘があり、そこから基地全体が一望できたが、な・・なんと柵らしきものがまったく無い。この当時は、こんな辺ぴな場所で、しかもこれだけ広大なエリアでは柵なんて余り意味を成さなかったのかもしれない。エプロンまで極端に言えば、何の障害物もなく歩いて行けそうであった。そんなエプロンには憧れのF-111が列線をなして我々を待ち受けていた。(2004/3 記)

↑ F-111Aの背中にある小さなアンテナは、UHFアンテナ。また大きな尾翼の前縁にバーチカル・フィンアンテナ、尾翼の付け根前方にはドーサル・フィンアンテナ等各種アンテナが組み込まれている。

↑ F-111の脱出装置は、米軍機でこの機体唯一無二と言って良いカプセル方式であった。2名のパイロットがが座上しているコックピットごと、カプセル方式で切り離され射出される方式で、しかもこのカプセル与圧装置があるのでカプセル内は旅客機並みの環境のまま射出出来る。海面に降りても、カプセル底部に空気バックふくらみ、浮揚できるだけでなく自動排水装置まで付いていた。

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世界初の実働可変翼戦闘機となったF-111A、可変翼についている兵装パイロンは、主翼の角度調整に応じて常に胴体と平行を保つ優れもの。

↑ F-111Aの黒いレーダーコーンの付け根にアあたる部分には、電子装置収納部で、装置の殆どは当時からユニット化され、整備員は交換、修理も楽になっていた。A型及びE型が搭載したレーダーは、Ah/APQ-113というゼネラル・エレクトリック社の航法/攻撃兼用レーダーで、低空に於けるグランドクラッターを除去して夜間でもパイロットに明瞭な地形情報を提供できる優れものである。

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Many F-111As in Mountain Home Air Force Base 1980
メインゲートに着いた我々は、ゲートガードに申請許可をもらっていることを伝え、PAO(広報)の担当者が迎えに来るのを待っていたが、ゲートガードの若い兵士曰く「遥々日本からこんな田舎に何しに来たんだ?写真撮影?変わった趣味だね・・おいらは、何もやることがなくてギター弾く位だね・・・楽しみと言えば」。我々も「・・・・・・」返す言葉に困ってしまい、笑顔だけを返した。暫くして、迎えに来たPAOの担当官は若い小太りのおねいちゃん。「え〜!!あなたたち○○日に来るはずじゃなかったの?待っても来ないし連絡もなかったんで、もう来ないのかと思っていたのよ!それが今日突然来るなんて・・もう!・・」 こちらは申請の日取り通りに来たつもりだったのだが、何かの手違いで先方のスケジュールは違う日取りになっていたようだ。友人が日本から持ってきた紙人形を手渡すと 一転、彼女は嬉しさを満面に浮かべ「まぁ いいわ・・こんな所までせっかく来たのだから見学していって」とPAOのオフィスまで連れて行かれコーヒーを御馳走になった。彼女曰く、どうも日本からわざわざ来る我々を歓迎しようと当初は色んなイベントを用意していてくれていたようだった。本来ならもっと様々なリクエストにも答えてもらい、凄く充実した基地見学が出来たはずであったが残念である。まぁ 長い旅の中では、こんなこともあるかと諦めてエプロンに向かった。
1980年当時の第366戦術戦闘航空団の編成

第389戦術戦闘飛行隊 389th TFS ”Thunder Bolts" 尾翼のフィンチップは、黄
第390戦術戦闘飛行隊 390th TFS ”Boars"  尾翼のフィンチップは、赤
第391戦術戦闘飛行隊 391th TFS ”Bold Tigers" 尾翼のフィンチップは、青


後の1981年11月に EF-111A電子戦戦闘機を受領した第388電子戦飛行隊 388th ECSが発足したが、1991年にF-111統合計画により部隊名を第429電子戦飛行隊に変え、1993年Canon AFBに移動している。1992年にはA型もすべて引退し、366th FWは、B-52、B-1、F-15C、F-15E、F-16Cなどを擁する最初の戦闘航空団(WG)に生まれ変わった。
上述した丘から撮影したマウンテンホーム空軍基地の一部。写真左手には基地の主要施設が建ち並んでいた。上空に今帰ってきた1機のF-111が、旋回しているのがお分かりになるか。
366th TFW
第366戦術戦闘航空団(366th TFW)は、唯一F-111のA型を使用していた航空団であった。元々ネヴァダ州ネリス空軍基地に発足した4480th TFWと言う4桁のナンバーを持つ航空団が、F-111Aの最初の受け入れ部隊であった。その後有名な”NA”のレターを持つ474TFWがこれら最初のF-111Aを引継ぎ、1968年にベトナム戦に投入されることになる。コンバット・ランサー作戦に投入されたこれら新鋭のF-111Aは、タイのタクリ空軍基地に集結し作戦に参加するが、事故などで墜落機を出し一度ベトナムを引き上げている。2度目の派遣でも事故が発生したが、地形追従能力と爆撃機並みの搭載力を発揮し、他の作戦機が侵入することもできなかったハノイの戦術目標でさえ爆撃し、コンスタンドガードV作戦でも活躍、1972年に本国に帰還した。この後、1977年8月に474th TFWからF-111Aを引き継いだのが、366h TFWだったのである。366th FWは、それまで 347th TFW(昔 横田基地に駐留していたF-4Cの部隊)からF-111F型を移管されて運営していたが、474th TFWからA型をもらって、F型をイギリスのレークンヒースにある48th TFWに渡した。474th TFWは、F-4Dに機種変更している。何とも判りにくい話であるが、要は新鋭機を緊張度の高い欧州に送った玉突き移動であった。
冬のアイダホ州は、快晴になることが少ないと言われている。何かいつも雲がかかっているような気分の晴れない天気である。こんな天気にベトナム迷彩の、しかも下面ブラックと言うマーキングの機体では黒ずんで良い写真は撮れない。しかし ”MO”のレターが未だ白であったことが唯一救われた。366TFWには、389th TFS、390th TFS、391th TFSの3個飛行中隊があったが、見分けられるのはフィンチップの帯の色だけである。この時エプロンには30数機のF-111Aが並び、誘導員、整備員等が忙しく動き回り、言い知れない緊張感が漂っていた。
Wings