CG-1/159258-(1979)
HOME
NEXT
click here
VMA-231
Page-1
CG-5-(1980)Misawa
CG-7/158393-(1978)
CG-1/159369-1978

(1980)

↑AV-8A VMA-213 "CG2"/Bu.No.159249 。機首番号は、”L2”に見えるが、実際は、Modex”2”である。AV-8Aはご存知の通り、英国のホーカー・シドレー社が開発した戦闘機である。ホーカー社は、特に力を入れて造り上げた自信作には”H”から始まる名前を付けたと言われているので世界初のV/STOL戦闘機ハリアーには大きな自信を持っていたのだろう。因み”H”から始まるホーカー社の航空機はホーカー・ハリケーン戦闘機に始まり、ハンター戦闘機、1970年代はハリアー戦闘機の他、ホークジェット練習機などがあった。
↑1979年夏、MA-213の各機は飛行訓練中は岩国基地からフェリーした際に付けてきた300ガロンの大型の増装タンクを使っていた。部隊は通常2種類の増装タンクを持っていて、30分で交換できるそうであるが、嘉手納には120ガロンは持って来ていなかったようだ。
CG-4/158710-(1978)
CG-7/158393-(1978)
↑ 背中に高く聳えているアンテナは、長距離通信用のVHFアンテナでAV-8Aの標準装備である。
CG-6/158696-(1978)
1974年に編成を完了してAV-8Aの3個飛行隊の一つとして活躍したVMA-231であったが、AV-8Aハリアーの事故率が高い事から機体数が3個飛行隊を維持できなくなり、最初に解散に追い込まれた可愛そうな飛行隊だった。
1980年9月7日の三沢基地オープンに展示されたVMA-231のAV-8A。VMA-231のA型ハリアーを見た最後の年となった。久々に胴体下に30mmアデン砲のポッドを付けてAV-8Aを見た。
1973年にハリアーを受領するまではペーパースコードロンであったが、実は1919年第一次大戦のフランス戦線に投入された初期の爆撃飛行隊で歴史のある部隊なのだ。第一次大戦後サンディエゴへ移動し、その後は太平洋方面での活動が中心となる。太平洋戦争当時は、SBD-5 かの有名なダグラス社ドーントレス急降下爆撃機でマーシャル諸島方面で活躍している。
CG-2/159249-(1979)

厚木R/W19で離陸するVMA-231のAV-8A CG-1

AV-8A
Wings
1978年嘉手納に展開したVMA-231のハリアー。各機給油ドローブ用のキットを付けており 空中給油訓練を繰り返す中 嘉手納で機体洗浄など束の間の休憩を行った。
1919年創設とされ長い歴史を誇るVMA-231は、1973年5月15日にイギリスが開発した垂直離着陸機AV-8Aハリアーを受領して 14機編成の海兵隊攻撃飛行隊となった。1977年1月に強襲揚陸艦インチョンに搭載され始めて空母運用部隊として認定を受けた。ケニアの独立記念日に12機の編隊飛行を披露するなど活動 1977年当時事故率の高かったハリアー飛行隊の中で2000時間の無事故飛行時間を達成し V/STOLの最優秀飛行隊に選出された優秀な飛行隊であった。私にとっては、彼らが1978年Det.A(A分遣隊)といして沖縄に展開した時が最初のシャッターチャンスとなった。この時の飛行訓練では、厚木では装着することがなかった空中給油用の長いブームを機種につけており ハリアーの珍しい姿を見ることができた。ノースカロライナ州チェーリーポイントをベースに 中東・ヨーロッパ方面への展開の多い飛行隊であったが 比較的撮影の機会には恵まれた部隊だった。
CG-5/159248-(1979)
1978年岩国にVMA-231が飛来時は、機体の国籍マークもフルカラーであり随所に注意書きもあったが、1979年飛来時のハリアーは機首に部隊インシグニアこそ記入されたが、すべての記号・国籍マークはブラックである。
当時 嘉手納のNAVYエリアに設けられた洗浄装置シャワーエリア。嘉手納に定常的に派遣されるP-3オライオン用に大型の設備が導入されたが 外来の機体やUSAFの機体もこの設備を大いに利用した。しかし 左写真のようにホースでの手洗いのほうが多かったように思える。
CG-4/159242-(1979)