(1952~2019)

海兵航空部隊は、元々偵察機部隊と電子戦部隊を統合されて運用していた。VMAQ-2も1952年の発足時はVMC-2として PV-2ネプチューンやAD-5N/Qを使用する海兵隊唯一の偵察部隊だった。その後VMCJ-2と名称変更し 1975年それまで岩国に駐留していたVMCJ-1”RM”の解散に伴って岩国にDet(分遣隊)が派遣されるようになった。

1966年10月にベトナム戦に初デビューしたVMCJ-2のEA-6Aは、早々にVMCJ-1と交代し VMCJ-1がベトナム戦での主力になったとされている。
 一方VMCJ-1のEA-6Aは、尾翼を黒に塗りこめ”プレーボーイ誌”のシンボルマーク”バニーちゃん”をつけていた為、根スケの私にとってはドキドキする存在だったのだ・・・なんのこちゃ!

 1975年の海兵航空改編で偵察専用飛行隊と電子戦専用部隊が、分離され偵察部隊はVMFP-3”RF”としてRF-4Bを使用した。VMAQ-2は、1977年2月にEA-6Bプラウラーを取得し EA-6Aの塗装をそのまま受け継いだが、すぐにロービジ塗装に変更され白黒のシックなVMAQ-2を見られた時期は短かった。
↑ 1977年3月嘉手納基地R/W05に着陸するEA-6A。EA-6Bも含め嘉手納基地で電子戦機を撮影できた機会は少なかった。
↑ 上の3枚の写真は、松野氏が1978年海兵隊岩国基地の柵外から撮影されたもので、1970年代後半の雰囲気が漂う懐かしい様子である。
1976年の秋口 夕暮れの厚木基地にランウェイ01で降りて来たVMAQ-2、憧れのEA-6A。建国200年の記念フラッグを機首の左に大きく書き込んでいる。ランウェイのエンドまで転がってくれたので撮影できたラッキーな日であった。私にとってEA-6A(CY)との初対面であった。EA-6Aは海兵隊所属であるが、海軍の空母に積載され海軍機の攻撃任務を電子戦の立場からサポートしていた。電子戦専用機については海兵隊の方が海軍より一早く研究に取り組んだとされる。
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EA-6Aは米海兵航空が最初に手にした電子戦用機である。近接支援任務において敵レーダーの攪乱をする事は生き残りに直結する為、1966年秋には早速ベトナム戦に活用し始めていた。翼下に付けている小さな羽の付いたポッドは、ALQ-76と呼ばれるジャミング・ポッドで敵レーダー波の周波数に合わせ対抗する妨害電波を発信する装置。敵レーダー波4周波数に1個が対応するが、EA-6Aは最大5個を携行できた。
上の写真は、当時岩国へ遠征したフニュ君の成果で目の前で見るEA-6Aは、雨模様とは言え眩しかっただろう。
1978年厚木基地で離陸の為 タキシーするVMAQ-2のEA-6A。グレー色だけで仕上げた低視認性塗装(ロービジビリティ・マーキング)であるが、未だこの時期は、他の部隊に普及していたわけではなく 恐らくまだ試験的に施されたものと想像する。尚この部隊が後継機であるEA-6Bプラウラーを使用し始めたときは、再びフルカラーマーキングに戻っている。
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EA-6A
横須賀から空母USS Midwayの出港に伴い その前日に岩国基地から厚木基地入りしたVMAQ-2おEA-6A 3機(CY-621/623/624)は、出港日 CVW-5の各飛行隊とともに 空母に向かった。手前はVA-56のA-7A(NF-413)。EA-6Aは、CVW-5の傘下にあったが、ベースを岩国基地としており 厚木で頻繁に撮影できる存在ではなかったので 1日で3機が同時にランウェイに出て行く姿に マニアも興奮である。
VMAQ-2は海兵隊の航空部隊が電子戦と偵察部隊を分割する前、RF-4BとEA-6Aを併用していた時代があり、尾翼を黒く塗ったバニーのRF-4Bが存在した。日本では見られなかった塗装であったが、バニーのファントムに一度お目に掛かりたかったものだ。