VP-19
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↑ 1960年代にP-3Aを受領した哨戒部隊の多くは、それまでのP2V-7/SP-2Hから引き継いだネイビーブルーと白のコンバーチブル塗装でA型を受け取っているが、VP-19も同様である。但し黄色い電光が機首のモデックスに書き込まれたのはVP-19の特徴だった。
(1946~1991)
VP-19は、太平洋戦争後の1946年に創設された部隊で、当初は予備役飛行隊の一つであった。しかし、朝鮮戦争勃発を機に現役部隊に召喚され、その戦歴は朝鮮戦争での金浦基地からの活動から始まっている。「ビック・レッド」のニックネームは、VP-19が朝鮮戦争時、アメリカ海兵隊の夜間戦闘機支援や地上部隊の為に、夜間において大量の赤いフレアー投下をした事から付いたらしい。VP-19は1955年にP2V-7に、また1963年にP-3Aに機種更新を行ったが、1966年に立て続けにP-3Aを2機事故で失っている(両機乗員は全員死亡)。同隊はNASモフェットフィールドを拠点としていたが1968年にP-3Bに機種更新し、再びベトナム戦争とプエブロ事件の対応として駆り出されアジア方面で8000時間以上の作戦飛行を実施している。1975年5月にP-3Cに更新し、1976年5月から1977年2月までの間、アラスカや沖縄嘉手納に配備され、この間に彼らは「バトル・E」を受賞している。また、VP-19は、P-3C部隊の中で最初にUPDATE-Ⅰを受領をした部隊でもあった。因みにUPDATE-Ⅰは、それまでのコンピュータと比べ処理能力が7倍になったとされる。
Wings
↑ その後 P-3部隊は、ガルグレーと白のコンバーチブル塗装に変更された。天井が白いのはコンピュウター等の電子機器を太陽の熱から保護する為である。VP-19の新塗装はチップの赤白の配置が以前と逆になり、暫くはテールレター以外何も書かれない状態で活動している。
↑ 神戸市在住のWhite Bearさんが、1968年3月に厚木基地で撮影されたVP-19のP-3B/PE-3/Bu.No.153435。VP-19が1986年2月から6月に掛けて岩国基地に派遣となり、同年1月に北朝鮮沖で発生したプエブロ号拿捕事件に対応したフォーメーション・スター作戦に参加した時期の緊張感の漂う写真である。また本機は1967年にVP-19に新品納入されて僅か1年でVP-46へ移動していることから、”PE”のテールレターが付いた本機の写真は貴重である。
↑ 1975年6月ヘクター空軍基地で撮影されたVP-19のP-3B/PE-5/BU.No.153451。本機は1967年工場でロールアウト後、新品でVP-19に配属された機体。モデックスの黄色い電光は、青白のコンバーチブル初期塗装から引き継がれた伝統として、このマーキングにも踏襲されている。丁度VP-19がサイゴン陥落直前の南ベトナムからの脱出者の手助けを行うフリークエンド・ウィンド作戦に参加して帰国後の写真である。
↑ 1975年9月のモフェットフィールド海軍航空基地で撮影されたVP-19のP-3B/PE-2/Bu.No.153456。
↑ 1970年代中期 日本ではあまり見る事ができなかったVP-19の旧塗装における尾翼のデザイン。ビックレッドとは朝鮮戦争時代に付いたニックネームであるから、古くから使っているのであるが、部隊徽のローマ時代の兜と斧、そして黄色い電光とアンマッチに見える、元々違うニックネームが存在していたのでは・・・・?
前述したが、1970年再び岩国基地に配備された際にベトナム戦における北ベトナムによる海上での物資輸送の監視業務を担当し、カムラン湾の基地に分遣隊を置き活動、その活躍により功労賞を受賞している。1972年キュービーポイントに配備されて、そこからベトナムへの哨戒任務に就いたが、それがサイゴン脱出作戦であるフリークエンド・ウィンド作戦を除き、ベトナムにおけるVP-19の最後の監視任務となったようだ。
↑ 上3枚ともに1975年9月にモフェットフィールドで撮影されたVP-19のP-3B。1975年には既にC型への更新が始まっており、これらのB型は他の部隊に移管の準備が始まっていたはずである。C型に更新後、VP-19はアラスカのアダック海軍基地に派遣され、Update-Ⅰを使用した最初の分遣隊を構成した。この地域でのSAR任務での優秀性が評価され、2度目のバトル”E”を受賞している。
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