P-3B
1980年VP-40は、三沢基地に配備され、キュービーポイントとインド洋の孤島ディエゴガルシアに分遣隊を持っていた。丁度その年の8月ソ連の潜水艦が沖縄本島の東方海上で火災事故を起こし乗員名が死亡する事故で、乗員救助のための出動も行っている。
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VP-40は第二次大戦後の1951年に、海軍で最初にPBMマーリン飛行艇を受領して対潜任務に就いた飛行隊で部隊名の”ファイティング・マーリン”もこの事に関連するようだ。マーリンは、カジキマグロのことであるが、戦闘意欲の象徴となっている。当のカジキマグロも戦闘意識の強い魚であり、自分よりはるかに大きい鯨に戦いを挑み、鯨の横腹に長いくちばしを突っ込むような激しい攻撃行動を行う。
 同飛行隊、朝鮮戦争時に最初に派遣を命ぜられた対潜哨戒飛行隊で、その時は岩国を拠点に朝鮮水域の警戒に当たっていた。1951年5月には日本の岩国基地に駐留し、朝鮮戦争時は対馬海峡の哨戒、黄海と日本海での国連軍補給路の援護などで活躍した。その後 NAS サンディエゴに戻り、サングレイポイントやノースアイランド等の海軍基地をベースに活動。その頃 東南アジア、特にフィリピンで使われるタガログ語の”常に準備は出来ている”を意味する”Laging Handa”をモットーとした。ベトナム戦争中は、カムラン湾への派遣も行われたが、創設から一貫してPBM-5 マーリン系の飛行艇を使っていた。最後は、SP-5Bというマーリンの派生型を最後に1967年にいきなり当時最新のP-3Bに更新している。VP-40はB型を7年使用し、1974年にC型に機種更新を行った。
1967年にP-3B受領後、VP-40は、VP-4の交代で日本の岩国基地に配備されたとある。この時代は、ベトナム戦たけなわの頃に当たり、彼らの任務も遥々カムラン湾への長距離渡洋飛行をもって、南ベトナム政府の支援任務を遂行していた。海のルートを通じてのベトコンへの物資輸送を監視していたのだ。
冒頭にも記述したが、この部隊のインシグニアにもあるモットー”LAGING HANDA”は、スペインの統治の影響を受けたフィリピンのタガログ語で「常に備えろ」と言う意味らしく、フィリピンのケソン市には、同名の地域がある。また、フィリピンのボーイスカウトのモットーともなっている。
P-3C
VP-40が P-3Bを取得したのは1967年11月、この更新でアメリカ海軍は、1911年から続く飛行艇時代に幕を閉じた。

1977 P-3C

1969 P-3B

QE-1/154589
QE-2/154591
QE-3/154578
QE-4/154579
QE-5/154586
QE-6/154587
QE-7/154588
QE-10/154590
QE-1/159321
QE-2/157325
QE-3/159323
QE-4/159324
QE-5/159325
QE-6/159326
QE-7/159327
QE-10/159328
P-3B/QE-7/Bu.No.154588
P-3B/QE-5/Bu.No.154586
↑ P-3Cに機種変更した後のVP-40の基本塗装、ベースはB型時代のマーキングをそのまま踏襲しており、げじげじの様な小さなカジキマグロを描いていた。胴体後方の国籍マークは白縁があるタイプだ。
1972年VP-40は、再び岩国へ配備され、この時タイのウタパオ基地にも3機のP-3B分遣隊を置いたとされる。国籍マークの位置と下面のガルグレー色の部分との境が↑写真QE-1/QE-7とは異なる。。冒頭4枚の写真は何れも1960年代にWhite Bearさんが撮影されたP-3Bである。
P-3B/QE-4/Bu.No.154579
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↑ フニュ師匠が岩国基地航空祭で撮影したVP-40のP-3C。機首にメンテナンス部門で優秀な成績を上げた事を示す”M”の文字が見える。
↑ White Bearさんが1977年岩国基地航空祭で撮影されたVP-40のP-3C/Bu.No.159329
QE-11/154582
QE-11/159329
Wings
↑ P-3B時代のVP-40の構成機は、White Bearさんが纏めてくれました。
P-3B/QE-1/Bu.No.154589
↑ 1978年9月嘉手納基地に展開し、この地で訓練飛行をするVP-40のP-3C。
Tail-Marking(1976)
P-3C of Fighting Marlins taxing on runway at NAF Atsugi 1976