VP-45
VP-45の歴史を紐解けば、このナンバーを付けた部隊は3つほど存在したようであるが、現在のVP-45の血筋を引くのは1942年11月にノーフォークで創設されたVP-205と言う飛行隊が起源らしい。VP-205は、哨戒飛行艇PBM-3マリナ―を配備されて、カリブ海などで哨戒任務をスタートしている。そして 1943年には2機の犠牲を出すも2隻のUボート撃沈に貢献している。1945年から太平洋方面に移動し、ハワイのカネオヘ基地に移動、太平洋戦争終了までサイパンや沖縄付近で活動していた。第二次大戦後は、再び大西洋方面に移動してVP-45と名称変更し、1963年には当時新鋭のP-3Aオライオン対潜哨戒機を運用し始めた。本拠地をNASジャクソンビルに置いたが、ベトナム戦争が始まるとタイのウタパオへも1968年末から分遣隊を置くなどして、マーケット.タイム作戦にも従事している。1972年4月からP-3Cに機種更新して シチリア島のNASシゴネラで活動、1988年からは機材に改造が加えられ、Updete-Ⅲ規格になっている。1990年にはスペインのロタに派遣され、そこから砂漠の嵐作戦などの支援業務に付いた。VP-45は2013年にP-8Aに更新している。
↑Modexが30番台を付けていたVP-45のP-3Cで1978年の塗装例である。尾翼のチップは赤色でModex32が書かれている。ペリカンは線書のみで色は居はない。同時期にModex40番台も存在し、ペリカンにも色が入っているので、分遣隊による違いなのかもしれない。
↑ 厚木基地を離陸するVP-45/LN-11/Bu.No.151366。本項2段目のLN-11とはビューアルナンバーが異なっており、機体の交換があったのであろう。
↑ 1969年3月 White Bearさんが厚木基地R/W19で離陸滑走するP-3Aを捉えたもの。Modexが何故か”20”を付けている。White Bearさんによれば、この機体この3か月後の6月2日にアラスカ州のNASエイダックでエンジントラブルから滑走路をオーバーランしてしまい乗員は無事だったが機体は大きく損傷し廃棄されている。
↑ 冒頭にご紹介したWhite Bearさんが厚木基地で最初に撮影されたVP-45/LN-10は、1969年3月に再会した時は新塗装に変っていたとの事。この機体は後にTP-3Aに改造されている。
↑ 1977年9月に撮影されたVP-45のP-3Cであるが、撮影場所は不明。1972年にC型に更新しているので、既に運用5年目で成熟期であろう。部隊の伝統である機首のシェブロンが美しい。
↑ 1978年8月西ドイツ(当時)のラムシュタイン空軍基地で撮影されたVP-45のP-3C/Bu.No.158573。
↑ 1981年3月ジャクソンビルで撮影されたVP-45のP-3C/LN-40/Bu.No.156510。上の一連の写真からこの数年ずっとModex40番台を使用している事が判る。また同時期Modex30番台も使っており、その使用方法は不明。
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↑ 1992年6月に撮影された完全にロービジ化が進んだ後VP-45のP-3C。ペリカンマークがあるだけ救いである。
Wings
↑ VP-45がP-3Aを取得したのが1963年であり、其の初期に施されたマーキングの一つ。正確な年代は不明であるが1963~1965年の間であると推測される。特徴は機首に他の飛行隊では見られない赤いシェブロンが入っていたのと、尾翼にインシグニアを描いていた所であろう。P-3A/Bu.No.151354
↑ 同じ1965年8月にWhite Bearさんが撮影されたVP-45のP-3A/LN-11/Bu.No.151349。既にこの機体は新塗装に変っている。同じ1965年の夏に2種類のマーキングが存在していた事が判り、この時期にガルグレー色の塗装への転換がが進んでいたのだろう。
↑ 上2枚の写真はWhite Bearさんが、1965年8月に初めて厚木基地へ赴いた時に撮影されたP-3A/LN-10/Bu.No.151375である。相鉄線相模大塚から徒歩で進み、道路とフェンスの間が今と違ってかなりの空間があったとの事。トンネルの上かもしれないがそのあたりで撮影した最初のP-3Aが何と白とダークブルーのコンバーチブルのVP-45だそうである。機首のシェブロンの前に何か書かれていたが、証拠写真程度の画像だったので何かは不明だそうである。