アメリカ海軍の代表的な哨戒飛行隊の1つであるVP-47”The Golden Swordamen”を本項でご紹介したい。現在VP-47は、P-8Aポセイドン哨戒機を有し。ワシントン州ウィッドビーアイランドを本拠地とする部隊であるが、P-3オライオン哨戒機時代は、太平洋方面を中心に活動し、厚木/三沢/嘉手納等各基地でもよく見る事の出来た飛行隊である。
第二次大戦末期の1944年6月にバージニア州ノーフォーク海軍基地で創設されたVP-27という飛行隊が、この飛行隊の原隊に当たる。VP-2には、PBM-3Dマリナ―飛行艇が配備され、フロリダ沖で乗員の訓練が行われた。訓練終了後部隊は、ドイツ軍の降伏によって戦線がシフトしたことにより、東海岸から西海岸のアラメダ各軍基地に移動、更にハワイのカネオヘ基地に進出して、日本軍との戦いに備える体制に組み込まれる。太平洋戦争ではサイパン攻略、沖縄上陸作戦などを支援する役割を担っている。太平洋戦争中は被撃墜2機を含む8機の損害が出ていた。
第二次大戦後も大変用方面に留まり、佐世保港に移動して、郵便などの輸送業務を行ったと言われる.。1948年に部隊名は現在のVP-47に変更されている。
朝鮮戦争が勃発すると、VP-47は岩国基地などに展開して、対馬海峡の哨戒任務や仁川沖周辺の機雷偵察等を実施し、ベトナム戦争ではトンキン湾事件発生後最初に派遣された哨戒飛行隊として、トンキン湾で活動している。1965年3月本拠地をカルフォルニア州モッフェット海軍航空基地に移し、P-3A オライオンを受領した。1966年1月にはオライオン飛行隊として、沖縄の那覇海軍航空基地へ展開し、翌1967年にP-3Bに機種更新している。この後B型による初めての空対地ミサイル ブルパックを装備をしたのが同隊である。
↑ 上2枚の写真は何れも1982年にフニュ師匠が厚木基地で撮影されたもの。盾の下にリボンが描かれている。
戦後VP-47と日本との縁は、1950年に横須賀に派遣され、佐世保にも駐留して日本周辺でのASW訓練を行ったところから始まる。飛行隊の派遣先は、グァムからフィリピンのサングリーポイント、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争の関係で対馬海峡の監視、朝鮮半島のインチョン(仁川)からウォンサン(元山)海域への機雷敷設など多くの任務をこなし、ベトナム戦争時代も含めVP-47は日本周辺と東アジア方面での活動を主にしていた。
↑ 1975年にモフェットフィールドで渡辺明氏が撮影したVP-47のP-3C。コックピットには星条旗を模したマークが入っているが、1975~1982年に掛けて所属機全機に入れられたマーキングであった。当初は1976年の建国200周年の記念かと思われたが、7年以上の長きに渡って機体を飾っていた。
↑ P-3Bに機種更新した1967~1968年頃に厚木基地で何度か確認されたマーキングで、尾翼にクローバーの葉が書き込まれていた。P-3B/RD-7/Bu.No.153422
↑1964年次第にキナ臭くなってきたベトナム方面の哨戒任務が加わり、トンキン湾での活動が任務となっていったが、翌1965年にNASモフェットフィールドに拠点を移動、P-3Aを受領している。1966年には、再び沖縄のNAF那覇に配備されたがこの頃のマーキングで、尾翼のチップはネイビーブルーに塗られ、鷲頭の盾と剣のマークが既に書き込まれていた。P-3A/RD-3/Bu.No.152155
↑ 1982年8月に千歳で撮影されたVP-47のP-3C。昔は千歳基地の公開にも米軍機の参加は多かった。USSコンステレーションからVF-211のF-14Aが飛来して展示された事もあったようだ。
↑ White Bearさん撮影の1981年5月の岩国基地航空祭に展示されたVP-47のP-3C/RD-3。ページ冒頭の写真と同機であるが、White Bearさんにとっては10年ぶりの再会だったそうである。機首の星条旗は1981年時点でまだ残されているものの、1980年代に入り尾翼のマーキングが変化している事がお分かりだろうか・・・先ず”RD"の字体が少し上下に圧縮され、鷲の盾の下にリボンが入った事である。
↑ 上3枚の写真も全て厚木基地で撮影したVP-47のP-3Cである。
↑1978年厚木基地R/W01に着陸するVP-47のP-3C/RD-7。
↑ 1978年厚木基地R/W19で着陸するVP-47のP-3C/RD-6。既に夕日が機体後部へ廻って尾翼に反射している。
↑ 1977年厚木基地R/W19で離陸する為、滑走中のVP-47のP-3C/RD-5。この頃の厚木基地お墓ポイントには1本大きな木があり、それに3~4人が乗れたので、少し高い位置からタキシーする機体を狙う事ができた。
↑1978年厚木基地R/W01に着陸するVP-47のP-3C/RD-3。1977年から78年に掛けてVP-47のP-3Cは、定常的に厚木でその姿を見る事ができた。
↑ 1977年9月に渡辺明氏が三沢基地で撮影されたVP-47のP-3C/RD-3
↑1971年9月にWhite Bearさんが厚木基地で撮影されたVP-47のP-3C/RD-3/Bu.No.158205。VP-47は1966年1月P-3Bを受領し、オライオン飛行隊で最初に空対地ミサイルブルパックを運用した部隊とされ、西太平洋方面への派遣は定常化して那覇やタイのウタパオにも分遣隊を設けるようになった。そして4年後の1970年には早くもC型への更新を実施している。
↑1973年10月10日White Bearさんが入間基地の航空ショーで撮影されたVP-47のP-3C/RD-6。VP-47は1970年7月NASモフェットフィールドでオライオン最新型のP-3Cを受領。太平洋哨戒部隊として最初にC型を運用した飛行隊となった部隊である。
1973年4月 VP-47のP-3C(Bu.No.157332) RD-5が、モフェットフィールドでNASA所属のコンベア990機と空中衝突事故を起こし、5名のクルーが無くなった。尚 NASA側の機体は11名全員が死亡。
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