VP-50は、時によって個別の機体に特別のマーキングを付け加えたりしたが この”SG-4”も尾翼のドラゴンの口から赤い炎のような出ているようにペイントが付け加えられている。最初は、現像時のゴミか汚れとも思ったが、どのショットにもあったので間違いなくペイントされたものである。1976年撮影
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(1946〜1992)
私が写真を撮り始めた頃、良く通った厚木基地で初めて撮れたP-3オライオンが、VP-50のP-3Cだった。その頃はB型とC型の区別も出来ず、先輩から「レードームの下に顎のように機器類が付いているのがC型!」と教えて頂いた覚えがある。NAVYのP-3の魅力は、なんと行っても派手なマーキングであったが、機体後部にそそり立つ面積のある尾翼をキャンバスに部隊名にちなんだ大きなマークを書き込んだP-3は、遥か遠くからでも尾翼さえ見えれば何処の部隊の所属か判別が出来た。着陸の撮影ポイントに立って、迫りくるP-3のシルエットを目にする度に、今日は何が撮れるのかとワクワクした気持ちにさせてくれた被写体だった。
VP-50は、C型を比較的早く受領していた為、軍縮の影響で解散するのも先かと思っていたが、真っ先に消えて行ってしまった。厚木で嫌になるほどT/Gを繰り返していた為、沢山撮影していたような記憶があったが、実際にはあまり撮っておらず厚木基地での写真は少ない。結局後に嘉手納遠征で彼らを撮ることが出来たので良かったが、皆さんも毎回目にするので「イモだ」なんて見過ごしていると、あとで後悔する事になるので撮れる時にはしっかり撮っておきませう!(2002/3/17 記)
↑ P-3A/B型では両翼の端にECM装置を付けていたそうであるが、C型になってからは、内翼のステーションに懸架された新しいECM装置に統一された。写真の4番機左翼の付け根近くに黒い逆三角形上の物体が見えるが、これがESMポッドAN/ALQ-178で、捉えた電波の敵味方識別から、レーダー製造国籍まで瞬時にコンソールに表示される優れものであったらしい。
↑ このSG-3 / Bu.No.158213は、この翌年1980年4月17日にサモア共和国パゴパゴで航空ショーの最中に墜落して失われた。
↑ 1978年に厚木基地に飛来したVP-50のP-3C。1976年以来久々に厚木で見た同隊のオライオンだった。
↑ 我々1970年代後期から航空機を撮影し始めた者にとっては、VP-50の代表的なマーキングと認識しているデザインである。但し1975年から1993年までの間、これ以外のマーキングがSNSにも出ていないことから、解散までこのままの塗装でいた可能性が強い。イラストは、1976年前後に施された4号機で胴体に”City
of SUNNY VALE"と書かれたものを再現した。尾翼の龍も赤い火炎?を出している。
↑ 1971年にC型に更新して最初に施されたと思われるのが、このマーキングで三色のチップラインにブーメラン型の矢尻が赤で描かれていた。この矢尻は1974年に青い機体も登場していることから、色が変更されたか、または2種類存在していたのかは不明だ。
この飛行隊は、解散前の1991年3月21日 悲劇的な事故を起こしている。サンディエゴの南西60マイル沖合いで、VP-50のP-3C同士が空中で衝突し2機とも海に墜落、両機の乗員27名全員が死亡すると言う事故である。おそらく P-3オライオンの事故としては、最大の犠牲者が出た事故であろう。事故は、訓練空域で演習を終えた機体とNASモフェットから離陸した交代の機体が入れ替わる時間帯で発生しており、その海域周辺では衝突の時間帯に深刻な乱気流の発生が報告されている。空中衝突で大きな爆発も確認されており、乗員の生存は殆ど可能性が無いなか、冷たい海に墜落した2機の乗務員の捜索は原子力空母エブラハム・リンカーンまで出動して懸命に行われたとある。USSこの事故で失われたのは、Bu.No.158930とBu.No.159325の2機。158930は、当時”SG-8"と言われているが、159325のモデックスは不明。
上の3枚は全て同じ方向から撮影したように見えるが その通りで厚木基地のお墓のあった空き地ポイントから400mmレンズでR/W19のタッチダウンを撮ったもの。ネガカラーであり色は今一である。1976年撮影
↑ 上写真は、1979年7月嘉手納基地で撮影したもので、VP-50との最後の出会いとなった沖縄遠征だった。VP-50は、1979年6月11日あら8月まで嘉手納のNAVYエリアに駐留し、ベトナム難民の監視、救助活動、ハープーンミサイルの空対地ミサイル能力の検証など多くの任務を果たした。
前ページで述べた通りVP-50は、1946年に創設されたVP-892という部隊からスタートし1953年に現在のVP-50と言う名称なっている。創設当初はPBM-5マリナーが使用機であった。部隊はその後1960年から1964年まで岩国に駐留して、1967年にNASモフェットフィールドに移動しP-3Aを受領、P-3Cへの更新は1971年である。1973年には日本の海上自衛隊に最新のP-3Cをアピールするため厚木を訪れている。1987年にP-3CアップデートVに更新したものの、冷戦終結に伴う飛行隊の削減で1992年6月に閉隊となった。最後の彼らの赴任地アラスカで終局を迎えている。
Tail-Markig of VP-50
SG-1/158219
SG-4/158214
SG-5/158215
SG-6/158216
SG-7/157329
SG-10/157330
SG-12/158930
Old-Insignia of VP-50
SG-3/158213
SG-2/158218
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P-3C "The Blue Dragons" was displayed in NAF Astugi 1978
1976年末 VP-50のオライオンにシャークティースが入っているとのうわさを聞き、その撮影のチャンスを待ったが、漸く目の前に現れたP-3C VP-50のSG-3は、歯の無い口を描き、不気味な笑いを浮かべていた。歯は後から書き加えるかと思ってマニア達はその動向に注目したが、結局暫くして消されてしまったようである。P-3の対潜哨戒部隊では、シャークティースを描いたケースが殆どなく、珍しいものだった。
P-3C of "The Blue Dragons" was landing to NAF Astugi 1976
彼らVP-50は本来の対潜任務意外に1970年代初頭、P-3Aを使ってミッドウェイ等からアリューシャン方面のソ連のICBMサイロ偵察任務も行っていたそうで、ソ連軍用船の周りに落とした音響測定機器をわざと回収させ、基地内のロシア語の音声などを分析して状況を伺っていたという記事もある。