VP-50
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1980年以降、私の就職に伴いP-3C部隊を追う事が出来なくなってしまった関係もあり、VP-50との縁は切れてしまった。1979年に沖縄でVP-50を撮影した後、まったくこの部隊を見る機会が無くなったが、部隊解散まで、さらに12年間も活動していた訳である。1987年には、再び嘉手納配備と記録されているが、その時のマーキングは如何なるものだったのだろう。この1987年の6月に部隊のP-3Cは、C型のアップグレードⅢの改造を受け、まったく新しい水中音響監視システムを導入、同時に監視できるソノブイの数が倍になったとの事で、水中の種々の雑音を排し、隠れる潜水艦の探知を容易にした。VP-50は、極めて強力な対潜哨戒飛行隊に変貌していたわけだが、1991年の2機の衝突事故が影響したのか、翌年に解散となってしまった。
VP-50の隊長機(スキッパー)の機首に貼られたスキッパーマーク
↑ 外翼に2か所の兵装ステーションがあるが、最大片翼3個まで拡張できる。また内翼に2か所、兵装庫内に8個のステーションがあるので、左右合わせて10か所、兵装庫8か所で合計18か所のステーションに爆弾/機雷、対艦ミサイルなどを搭載できる陸上攻撃機でもあるのだ。
↑ P-3 オライオンの正面風防ガラスは5枚に別れ、上部左右の三角窓を含め7枚のパネル構成だった。専門誌の情報によれば、全てのパネルガラスは曇り止めの為に加熱方式になっており、上部の三角窓は青いアクリル板を入れて太陽光を軽減しているそうである。
↑ 当時サンパウロの丘(ここで移動バスでハンバーガーを販売していた店主が、ブラジルサンパウロ帰りの人で、バスにこの名を付けていた事からマニア諸氏にそう呼ばれるようになった)で、海軍機のタキシングを目の前で見る事ができた。標準レンズ50㎜でP-3Cは充分である。1979年7月時点で嘉手納基地駐留の部隊は正しくVP-50であり、彼らの雄姿を堪能する事ができた。
↑ このP-3C/SG-12/158930は、後にサンディエゴ沖でVP-50の僚機と空中衝突して墜落するが、その時はSG-8をModexに使っていたそうである。亡くなった両機27名の乗員のご冥福を祈りたい。奥に見えるのはMC-130と18th TFWのF-4D群であるが、この2か月後にはF-15C/Dが飛来して機種交換が始まった。実質上1979年は、嘉手納基地F-4ファントムの終焉の年ともなったのだ。
↑ 1979年7月 漸く夏の初めに嘉手納基地の展開を果たした私は、R/W23でのタキシングを堪能する事ができた。(それまでの3回の嘉手納行は何れも夏のアルバイトを終えた後だったので、北風が吹く始める8月後半などが多かった)。横に見えるのはロービジ化したVMA(AW)-332のA-6E
↑ 1985年5月に撮影されたVP-50のP-3C。Modex2のビューアルナンバーは1976年から変わっておらず、P-3にしては珍しく10年近くも移動もしていなかったようだ。但し、マーキングに使われた色は、若干青色が濃くなっているように見える。
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