VMFA-122

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VMFA-122は、1942年3月に部隊の前身が誕生している。この年の3月と言えば日本軍がジャワ島に上陸するなど、太平洋各地で破竹の勢いを見せていた時期である。この頃、部隊の前身であったVMF-122はF4Fワイルドキャッツを受領し、その後かのガダルカナルの攻略作戦に参加している。F4FからF4U-1コルセアに転換後、太平洋戦線で35機の日本軍機を撃墜するなど実績を上げた飛行隊だ。その頃、彼らの部隊名は「キャンディ・ストライパーズ」。この名前は後に看護助士の総称にもなったそうだが、赤と白の縞模様が.由来である。

 VMFA-122は海兵隊でFH-1ファントム(初代ファントム)を最初に受け取った部隊であり、またF-8クルセイダーを最初に配備された部隊でもある。1957年頃VMFA-122は、部隊名を”Cruseders”に変更しているが、当時F-8を受領した最初の海兵隊戦闘機中隊だった為だ。私が彼らに初めて出会ったのは、1979年7月に岩国のMAG-15に配備された頃になる。ラダーに蒼い剣のマークを入れただけのシンプルな塗装だったが、1年の日本滞在の間に彼らを可能な限り撮りたいと嘉手納にも遠征した。VMFA-122は1986年にF/A-18Aに機種転換し、VMFA-314についで海兵隊で2番目のホーネット飛行隊となった。ローテーションで岩国にも来るようになり撮影の機会も増えた。
↑ 1978年岩国基地駐留時、見慣れない250番台のモデックスを付けており、上写真のModex256機のように背中に”USS MIDWAY"の文字を入れていた。これは、彼らが空母での離着艦資格を持って艦載機として運用されていたことを意味している。

←1978年10月の嘉手納基地、8月下旬から北風が吹いてR/W05が多い。VMFA-122は、岩国からここに訓練に来ており良く訓練飛行を実施した。海兵隊では低視認性のロービジマーキングをこれから全面的に導入しようとしていた時期で、F-4Jを使っている海兵隊の飛行中隊でも配色に制限が加わり、以前のように派手なマーキングは姿を消しつつあった。VMFA-122も 剣を胴体に大きく描いたマーキング時代もあったが、そうした派手なマーキングは、既に期待できないご時世になっていた為、青い剣が書れただけでも嬉しかった。

彼らが、最初にF-4Bファントムを受領したのは、1965年で駐留していた厚木基地からカルフォルニア州のエルトロ基地に戻ってからである。MCASエルトロでF-4Bの訓練に習熟した後、直ぐにベトナム戦に投入されダナン空軍基地をベースに活動している。

海兵隊最初のF-14トムキャット飛行隊になる計画が頓挫して、1975年9月F-4J型を受領している。

DC-256/153911
DC-253/153840
DC-257/153904
DC-260/153869

Galloree

F-4J
DC-251/155865
DC-255/153856
DC-262/153857
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Wings
F-4Bを受領したのは1965年1月、この時VMA(AW)-122からVMFA-122に名称変更が行われた。ベトナム戦への参加は2度あり、1400回近い出撃記録を持つ。1975年12月にF-4Jを受領している。同じ1975年F-14トムキャッツへの転換飛行隊の候補とされたが、海兵隊そのものがコスト面で導入を諦めた為、テールレター ”DC”のF-14Aは実現しなかった。後にVMFA-122はF/A-18Aに更新された。

VMFA-122が1947年初代FH-1ファントム(後の名機ファントムUではない)を受領し 海兵隊最初のジェット機部隊となった際、デモンストレートチームとして海兵隊航空をアピールした。この時のチーム名が「フライング・レーザーネックス」

1979年6月家電基地のR/W23に向かってタクシングするVMFA-122のF-4J。センタータンクに剣持った十字軍戦士らしきシルエットが書かれている。ベトナム戦では彼らは、20mmガンポッドを多用した戦いをしている。

DC-252/153858
F-4J of VMFA-122
in Kadena 1979