初めて沖縄に行った1977年の夏、私と友人はホテルを取った那覇市内からバスに乗って目的地嘉手納基地に向かっていた。これから目の前に現われるであろう憧れの嘉手納基地に胸は高まるばかりで、今か今かと左右の風景を目をやると、突然左手に海兵隊航空部隊の基地が国道にすぐ脇に現れた。何と国道と平行にエプロンには、AH-1J、UH-1Nがずらりと列線をなしている。なんだ此処は!200mm?いや手前に並んでいるのは50mmの標準レンズでも撮れそうじゃないか・・その日は流石にそこでバスを途中下車することはしなかったものの、嘉手納基地に通う合間に1〜2度は顔を出してみようと考えた。そこはハンビー飛行場(Hamby
Field)と呼ばれ、普天間基地の予備的な基地であった。米軍により1945年に造れた小さな飛行場だったが、1981年に日本に返還されて基地は無くなってしまった。現在は大型のスーパーマーケットサンエー等の商業施設(サンエーハンビータウン)が並んである場所である。1977年8月我々がハンビーを訪問した時に、エプロンにいた部隊はHMLA-367だった。
↑ 飛行を終えて点検を受けるHMLA-367のAH-1J/Bu.No.157764/VT-24 。コックピット下部のパネルは、M197 20o機関砲の弾倉収容部である。
↑ 海兵隊戦用に作られたJ型は、米陸軍が多用した単発エンジンG型/Q型/S型と比べ、エンジンを1基増やしツィンエンジンとしたことが決定的な違いであった。洋上を長距離で移動することが想定される海兵隊の参戦遂行上、エンジンの信頼性が重視されたわけである。J型が、2基のエンジンをつのシャフトでにつなぎ、1基が故障しても飛行に支障が出ない様、設計されていた。
1977年に配備されたばかりの海兵隊航空新鋭のAH-1J。初めて海兵隊専用に手を加えた機体であり、HMLA-367でも運用の習熟に力を入れていた時期であったであろう。
HML-367は、1943年に東海岸バージニア州クゥアンチコで偵察飛行隊として設立された。太平洋戦争では海兵隊の偵察任務を沖縄戦などで行っており 沖縄とは元々縁がある飛行隊のようだ。設立当初VMO-3と言う部隊名を持っていたようだが、1969年3月にHML-367と名称変更し、同時にUH-1ヘリの受領を受け、武装してベトナム戦を戦っている。UH-1以前は何を使っていたかは不明であるが、ベトナムには1966年ごろから派遣されていたようで1971年に沖縄に移動するまで長い間、ベトナム戦を戦っていた歴戦の部隊である。この間、1969年にはAH-1Gコブラを24機受領している。
ハンビー基地のゲートに掲げられたHML-367のプレート。コマンダーは、F.C.ルイス中佐となっていた。1978年3月
ハンビーは、このようにヘリのホバリング訓練や武装の取り付け、取り外しなど普段他の基地では見ることが少ない海兵隊航空の活動風景を目の前で見る事が出来た。この頃のHML-367は、機体にテールレターが書かれておらず少し寂しいが、パイロットのヘルメットなどよく見ると興味深いマーキングもあり 結構楽しめた。
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派遣されていたベトナム戦から沖縄に戻ったHML-367は再びUH-1Eに機種交換されたが、1976年1月にUH-1の最新型UH-1Nを受け取り さらに1977年上記の写真にもあるとおり77名の士官と6機のAH-1JがHML-367に加わりより大きな部隊になった。在日中はMAG-36の傘下に所属したが その後本国のキャンプ ペンデルトンに戻り 他の飛行隊とのローテーションで最近も沖縄普天間基地によく訪れる部隊の1つである。
↑ ヘリコプター操縦での基本中の基本が、ホバリングである。新人は当然ながらベテランでもホバリングの定期訓練は欠かせない。新人の場合ヘリの両サイドでクルーが顔を出して、地上との距離をチェックしながら時間を掛けて、安定した空中静止が出来るよう時間をたっぷりと掛けていた。
↑ VT27も訓練飛行を終えてハンビーに戻ってきた。VT-24とVT-27はペアを組み事が多く、後に嘉手納基地でも射撃訓練のマーミングで2機のペアは飛来している。