(1948~1969)
(1983~1991)
第二次大戦中の1943年に西海岸のサンディエゴで生まれた哨戒飛行隊で、15機のPB4Y-1(リべレーダー哨戒機)で基礎訓練終了後、ハワイのカネオヘ基地に派遣された。ニックネームである”ハワイの戦士”と言うのも、このタイミングで付けられたと思われる。部隊は太平洋戦争中 グゼリン諸島やウェーク島などへの爆撃任務に就き、マリアナ諸島の監視・対艦攻撃任務に就いていた。戦後は一度ハワイに戻るが、再び極東に派遣され、P2V-5/SP-2Hで嘉手納基地から東シナ海/南シナ海など中国軍の監視にあたっていた。1964年P-3Aを受領し、1969年には再びアメリカ統治下の沖縄那覇基地にも配備されているが、同年中にハワイで部隊解散している。アメリカ海軍航空隊では1968~69年には3つの哨戒飛行隊が整理閉鎖されているが、当時最新のP-3Aオライオン哨戒機を運用している飛行隊の解散は同部隊が最初である。
1983年 アメリカ東海岸のブランズウィック海軍航空基地で、新しいタイプの予備部隊であるMaster Augment Unitが結成された。同時に西海岸にはNASモフェットにも作られたようだが、Master
Augment Unitは予備役哨戒飛行隊の訓練に新しい概念が基礎にあったそうである。訓練要領や組織などの詳しい実態は不明であるが、予備役部隊の要員が週末等に訓練をする際に実戦部隊の機体を使った訓練課程に新しい教育コースも取り入れ企画運用していたようである。
資料によれば、予備役要員の訓練として、週末の単独訓練以外にも、予備役要員が実戦部隊に単期的に派遣されて実戦部隊要員からOJTで学びながらスキルを上げて行く課程、時には海外に派遣された第一線部隊に入りながら、現場状況をつぶさに体験することにより、予備役要員の即応能力を図ると言った内容らしい。
暫く独自の航空機を持たない組織であったが、唯一例外としてTP-3Aと言う機体が短期間に存在した。実戦部隊ではVP-30/31等の教育専門部隊が存在していたので、全て最新の実機をもって要員の教育を行っていたが、VP-MAUでは独自の機体を持っていなかったため、教育課程の充実をはかるために訓練専用機を配備したのかもしれない。何れにせよ、その後の冷戦終了に伴うアメリカ海軍の軍事費削減のあおりで、多くの予備役哨戒部隊と共にこのVP-MAUも1991年に解散したそうである。
↑ 1989年10月厚木基地で、White Bearさんが撮影されたVP-MAUのTP-3A。暫くの間独自の機体を持たなかったVP-MAUが1986年にP-3Aを改造した機体を手にしたらしいが、まさか厚木基地にこれが来たことは知らなかった。White Bearさんは飛来にいち早く対応され、厚木基地付近の仏壇屋の屋上からこれを狙ったそうである。P-3AからTP-3Aに改造された機体は、このBu.No.151379以外に、151370/151371/151375/151376/151382の5機が記録にあるが、”PS"等のテールコードを描いた機体はこの機体だけだったのではないだろうか・・・・
↑ 神戸在住のベテランマニアWhite Bearさんが、1969年6月伊丹空港で撮影された貴重なVP-28の写真である。特にSNS上でも殆ど小さな画像しかなく、詳細が不明だった尾翼の”Hawaiian Warriors”の絵柄がはっきりわかる尾翼の写真は非常に貴重である。VP-28は、この年に沖縄の那覇基地に駐留しており、ベトナムのカムラン湾等の監視業務等についていたが、1月に就任したニクソン大統領は公約でベトナムからの撤兵を掲げていた為、一部の部隊撤収に伴いVP-28も引き上げられている。1960年代に再編成が進みP-3部隊が次々に生まれる中で、P-3を運用する飛行隊で最初に解散した珍しい飛行隊となっている。