VR-30
VR-30は、VRC-30の前身となった部隊であるが 日本で見られた期間は短く 今となっては資料も少ないため インシグニア1つ作成するにも資料を探すのに苦労するほどである。海軍の空輸部隊は、太平洋戦争開始直後(真珠湾攻撃の5日後)から設立された組織で ノフォーク海軍基地のVR-1を手始めに VR-2 VR-3の3つの空輸部隊を民間航空会社のベテランパイロットを引き抜いて速成したのが始まりだった。この後 対戦中を通じ この空輸を担当するVR部隊の役割は 次第に重要性が強まり次々に部隊が増設された。大戦後も東西緊張の高まりから 輸送部隊の拡大は続き 一時は MATSという組織で 3軍の輸送を一本化する動きもあったようだが 結局海軍は独自の航空輸送部隊を運用する方向で進め、組織は次第に拡大された。これは 当然と言えば当然であるが 海軍は作戦区域拡大に伴い 補給手段も出来るだけ航空機を使いたい。しかし 元々うまの合わない陸軍 そこから派生した空軍に頼るよりは 海軍直轄で航空輸送を担う部隊を編成したいというのは自然の流れである。
 資料によると VR-30は、1966年の10月創設となっている。朝鮮戦争終了後までに いくつかのVR部隊は閉鎖されたが すでに30近い空輸部隊が存在したわけである。
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↑ 時間を少し戻すことになるが、渡辺明師匠のスライドコレクションの中に、1975年8月7日撮影と記載されたVR-30のC-9Bの写真があったので、此処に掲載させていただく。NASアラメダでの撮影で、このC-9B/Bu.No.159113が日本に来日した1977年には既にVR-30は解散して、VR-55の所属として”RU"のテールレターを付けていた。

空軍の輸送システムが整備されている中 海軍が C-118Bの更新としてC-9Bのような大型のジェット輸送機を独自で運用するには 議会の承認を得て機体予算の確保をせねばならないが 空軍の必要な反対と議会の説得に 相当苦労したようである。最初の12機のC-9Bは、VR-1とこのVR-30に配備され、乗員の訓練と輸送システムの運用研究が行われた。
私が厚木に通い始めた1976年に C-9Bで飛来する唯一の部隊が ”RW"のレターを付けたVR-30であった。VR-30は、1973年に最初のC-9Bを受領しており おそらくVR部隊としては最初である。
 この部隊 C-130、C-9、CT-39など複数の機体を運用していたが 1977年にはC-9Bを専門で運用するVRが次々と立ち上がって ”RW"のC-9Bを見ることはなくなった。

当初 VR-30が持っていたC-9Bは6機。159113、159114,159115,159116、159116、160050,160051。

↑ 上の写真も同じ日付での撮影で、アラメダ海軍航空基地をタキシーするVR-30のC-9B/Bu.No.159115。この機体もこの後直ぐにVR-55へ移管されている。NASアラメダは、サンフランシスコ湾内に位置する海に面した海軍航空基地で、写真の後方に見える大きな橋は、オークランドとサンフランシスコを結ぶ”サンフランシスコ・オークランド・ブリッジと思われる。

↑1978年 厚木基地航空祭で公開されたVR-30のC-9B(159116)であるが、C-9BがOHで公開されることは少なく 私は1度しか見ていない。この時公開された機体は 以前機首につけていた大きなインシグニアを消しており 部隊再編の前兆だったのかもしれない。この後 ”RW"のC-9Bは姿を消し 1976年から稼動を始めたVR-55”RU"に役割と機体の一部をバトンタッチしている。 
Wings

↑ 1976年横田基地を離陸する為、横田ドライブイン前を滑走するVR-30のC-9B/Bu.No.159114